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わたしの著書

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2017年4月27日 (木)

憲法Ⅱ(第6回)。

 sun。わたしはすでにGW突入です。

 で、きょうの「憲法Ⅱ」のレビューです。

 (0) いつものようにSBSから。

 ① なぜ、明治憲法と日本国憲法の法的連続性を確保することの意味とは何か、法的連続性がなければ何か弊害が生じるのか、という質問について。講義中にもお話ししましたが、これ、いい質問ですよね。なぜ、この先生、「八月革命説」・・・とか「事実としての力」が発動されれば・・・なんて、熱っぽく言っているのか、と。

 こうした抽象的な議論をする意義は、ズバリ「日本国憲法の正当性」、「日本国憲法下での統治の正当性」を論理的に説明するためである、と講義しました。これがうまくいかないと、日本国憲法下での統治の正当性は失われ、制定後70年間に実施された法的行為のすべての正当性を失ってしまうからである、と。

 でも、それは「頭の中だけでのこと」であって、現実社会では、それでも統治はなされるのでしょう、ともいえます。ただ、それ、全部、法外の「事実としての力」による統治になってしまわないでしょうか。もし、これを認めてしまうなら、講義でもお話ししたように「内閣による解釈改憲」といったって、それを批判する論拠を失ってしまうであろうと。だって、日本国憲法そのものが法外の「事実としての力」によって制定されていることになってしまうので。

 SBSで下線で示したように、日本国憲法の制定がそもそも法的には説明のつかないものであり、政府によるそれ以降の統治だってそう、これからもそう・・・、それでよいでしょうか。

 ということで、日本国憲法の正当性を論理として確保することは、日本国憲法に基づいて現在の統治のあり方を検証するために、さけては通れない一里塚だと思います。

 ② ちなみに、法令用語の基礎知識であり(1年生の基礎演習Ⅰで学んでいるよね~~)といった「その他の」と「その他」の違いを含めて、法令用語の用法について確認してください。その名もズバリ『法令用語の常識』なんて本もあります。

 (1) 本編にはいって、まずは前回の積み残し、君主でも元首でもない天皇が憲法上なし得る行為とは何か、ということで、国事行為について検討しました。

 ① 国事行為は、憲法6条及び7条に列挙されています。これは、もともと儀礼的なものか、それとも、憲法上の他の規定により実体的決定権が他の国家機関に与えられたあと、形式的に天皇の国事行為とされているものに分類できる、とお話ししました。いずれも、国政に関する権能を有しない天皇(4条)なので、国事行為として6条、7条に列挙された時点ですでに形式的・儀礼的なものになっている行為です。

 で、このうち、国会の召集(7条2号)と衆議院の解散(同3号)については、実体的決定権の所在が憲法上明確になっていない、とお話ししました。いずれも内閣に権限があると思われるけれども、前者(召集)については国会が自ら召集を決定できるか(自律的召集が許されるか)、後者(解散)については内閣はいつでも解散できるのかそれともなんらかの制約があるか、という論点があることを紹介しました。それぞれ、国会及び内閣の章で解説します。

 ② つぎに、天皇に憲法上許される行為はこの国事行為と私人としての天皇の行為に限られるのか(国事行為限定説)、それとも、それ以外に憲法上なんらかの行為が許されているといえるのか(国事行為非限定説)があることをお話ししました。

 そして、天皇は、国会開設のさいの「おことば」にはじまり、地方巡幸、外国要人の接受等を行っているので、国事行為限定説は実務的にはないとお話ししました。

 ただ、では、その中間領域にある行為(公人としての行為とも象徴としての行為とも)は制限なくできる(内閣は制限なく助言と承認を与えてよいか)というと、そうではいはず。なによりも天皇の政治利用を防止するために(為政者は天皇の存在及び天皇制の「社会統合機能」を巧みに利用して統治してきているので)、天皇を国政に関与しない地位に留め置くような運用がなされなければならないはずです。

 (2) そして、講義は9条解釈にはいりました。「9条論」の冒頭では、日本国憲法が前文及び9条で採用した国際協調に基づく安全保障の実現について、戦略的あるいは情緒的思考に陥らないために、戦争観をめぐる歴史の流れ、9条制定の背景、9条の文理解釈、そして、裁判例をいう柱をたてて、このテーマを解説することを確認しました(参照、青本P81)。

 ① で、まず、戦争、武力行使違法化の歴史についてみました。そこには、第一次世界大戦前のものとしてH・グロチウスによる正戦論にはじまり、無差別戦争論、第一次世界大戦後のものとして国際連盟規約、不戦条約、そして、第二次世界大戦後のものとして国連憲章などがあることをお話ししました。

 ここでのポイントは、「不正戦争/正戦」、「侵略戦争/自衛戦争」、「戦争/武力行使」といった区別(いずれも前者を禁止し後者を例外とする戦争防止論)を経て、現在では、国際社会は戦争のみならず武力行使一般を違法化する流れにあるので、日本国憲法9条もこの流れのなかで解釈されなければならない、という点です。日本国憲法だけ真空のなかで平和主義を採用したわけではないのです。

 また、国際社会は武力行使一般を違法化(国連憲章2条4項)しているとはいえ、自衛権の行使については例外としている(同51条)ことと日本国憲法の関係もポイントとなりますよね。きょうはあまり深掘りすることができなかったので、連休明けの講義では、このあたりを詰めることになると思います。

 ② 講義の終盤では、9条の2条項に逐条解釈を施しました。そこでは、9条1項で全面放棄とするか1項・2項合わせ技で放棄とするかは学説の分岐があるけれども、9条は(侵略的なものにしろ自衛のものにしろ)戦争(実質的意味でのそれ)を全面的に放棄しているという見解が一般的である、とお話ししました。

 ③ ただ、それでは、戦争を全面的に放棄するために保持しないとした「戦力」とはなにか。現在の政府見解は「近代戦争遂行能力」をもたなに「必要最小限の自衛力」はそれにあたらないとしている、ともお話ししたところで、時間になったと思います。

 この政府見解と自衛隊、自衛権(集団的、個別的)のお話しから連休明けは講義を再開します。

 それでは、みなさん、よい連休を!!!!!

 

2017年4月25日 (火)

演習Ⅰ(第3回)。

 きょうの3年生のゼミ(演習Ⅰ)のレポートです。検閲して(笑)、掲載しています。

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 今回ブログを担当させていただきます、H・Kです。きょうは、よく晴れた絶好のゼミ日和でした。

 ゼミではディベートをしました。このゼミではじめてのディベートということもあり、みんな少し緊張した面持ちで授業に臨みました。

 論題は「夫婦別姓について」で、夫婦同氏を定める民法750条1項を憲法に反するものではないとした平成27年12月16日の最高裁大法廷判決(民集69巻8号2586頁)について、この多数意見及びその理由付けについて賛否にわかれてディベートしました。

 最高裁の判決が夫婦同姓について合憲の判断を出している手前、別姓を認めても良いという意見を通すのは少し難しそうに思えましたが、各班とも戸惑いながらも意見を出し合えていました。

 写真を撮りたかったのですが議論が白熱していてディベートの様子を撮り忘れたのが残念です。

演習Ⅱ(第3回)。

 sun

 きのうの4年生のゼミ(演習Ⅱ)のレポートが届きました。当番はK・Iくんです。

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Photo 今回の演習では、「抽象的違憲審査制を導入するか、否か」というテーマでディベートを行いました。

 抽象的違憲審査制を肯定する側は、「現在の付随的審査制の下では、具体的な事件が発生しない限り違憲の疑いのある法律を改正することができず、手遅れのリスクが発生するのではないか」、「客観訴訟が許されていて、抽象的審査が許されないのはなぜか」といった主張をしました。

 それに対して、否定側は、「そもそも裁判所の役割は、具体的事件に直接の利害関係を持つ当事者の主張を踏まえてどちらが正しいかを判断するものであり、この基本姿勢を離れると司法や行政の均衡を失うこととなってしまう」、「客観訴訟においての違憲審査は、特定の者の具体的な法律関係を擬制しうる紛争において、法律命令等の合憲性を判断することに当たるので、法律の根拠があれば憲法上例外的に許される違憲審査といえるから、抽象的違憲審査とは異なる」、さらに、「近時、最高裁は違憲判決に対してある程度積極的な姿勢を見せているため、抽象的審査制の導入の必要はない」といった反論を行い、活発な議論がなされていたように思います。

 私が所属する班は否定側に立ち、私個人としても抽象的審査制の導入には否定的な立場でした。たとえ、抽象的審査制を導入するとしても、要件が緩いと政治や行政が司法へ介入するおそれがあり、要件を厳格なものとすると、抽象的審査制の効果が薄くなるのではないかと考えたからです。よって、導入の必要は無いとしました。

 今回のディベートを良いきっかけにして、このテーマに対して興味を持って今後勉強していきたいと思います!

 次回のブログは、ウィスキーを水のごとく飲むことで有名な我がゼミ長の担当です! 笑いあり、涙あり、全米が泣くほどの超大作を期待しましょう!!

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 はやくも次回の担当者に「バトンをわたす」という慣例ができ上った感がありますが、同時に、ハードルも高めているような、、、

 今回のゼミテーマは、新井誠先生編の『ディベート憲法』(信山社、2014年)を参考にさせてもらいました。

2017年4月24日 (月)

憲法Ⅱ(第5回)。

 sun なのに~、憲法Ⅱ~。

 で、きょうの憲法Ⅱの講義のレビューです。

 (0) まず、いつものようにSBSから、

 ① 「リベラル」の意味ですが、これ、自由主義と訳すのは、ハッキリ言って「間違っている」か「誤導的である」と講義しました。リベラルは、自由を制限してでも実質的平等という名の結果の平等を実現すべきであるという政治思想です。あえて訳すなら「社会民主主義」であろうと。で、こうした政治思想を私有財産の社会化を通じてでも実現すべきであるという政治思想を「社会主義」というとも講義しました。日本国憲法は、社会権規定により、リベラルな政策は許容されているでしょうが、社会主義化は29条1項により禁止されていると思われます。

 ところで、リベラル派によって占められていたGHQによる日本国憲法制定の意図については、いずれも保守派の論客によるもののようですが、下記二冊をあげておきます。

 ② 憲法改正における「事実の力」による改正について。憲法改正権は実体的/形式的/手続的な拘束をうけるけれども、なおその拘束を超えて改正されるというような現象が起きたとすると、それは「事実の力」による改正ととらえるしかない、と講義しました。

 で、その例はあるのか、という質問について、この「事実の力」は正規の法からするとある種の違法状態とも考えられるので、法治国家では望ましいものではない(したがって、具体例としてあげられるものはない)とも。但し、憲法改正案の発議について(これは96条に権限者が規定されていてそこに国民はない)、「憲法改正手続法」(国民投票法)の附則には憲法改正過程にも「間接民主制」の拘束がある旨、規定されているので、かりに国民による発議がなされてそれが成立したとすると、これ「事実の力」による改正であった、と評価されるのでは、とも回答しました。

 (1) 本論にはいって、まず、憲法改正に形式的限界はあるか(憲法改正規定を改正権により改正できるか)について検討しました。わたしは、制憲者が改正権を現在の形式と手続に厳格に固定する意図ではなかったはずだとして、発議においていずれかの議院に優越を認めるとか国民投票をなくすというようなことを禁止し、しかし「いくぶん」かの改正は許されるとしている通説的見解を否定する論陣をはりました。改正規定をいまのもの(5分の3でもなく2分の1でもなく「3分の2」、要国民投票など)としたのは制憲者であり、これを改めることは改正権の設定と同じなので制憲者にしかできないのでは、と。青本のP45~P46を吟味してみてください。

 (2) つづいて「象徴天皇制」の項目にはいり、憲法1条の意義を検討しました。

 ① まず、1条前段の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ〔る〕」の法的効果は、政治的に中立な存在であってはじめて象徴としての機能を果たせる考えるなら、機能を失われるような行為を天皇に禁止し、その機能を毀損するような行為を天皇にとらせることを政府に禁止しているものである、としました。

 で、なにが「政治的なるもの」なのかがここでも問題になりますが、これは青本のP64~P65のあとP76~P77を読んでください。わたしは「政治的」という概念も形式的にとらえるべきであると考えているので、何が政治的であるかを実体として検討するのではなく(そうすると百家争鳴)、政治というのは人間社会における人為的営みの集積であろうから、人為的でなければ(非人為的)「政治的ではない」ととらえればよく、たとえば、天皇特例会見における「30日ルール」のようなものを守ったか否かで、政治利用されたか否かを判定するのがよい、との見解を表明しました。

 ② つぎに、1条後段の「〔天皇の〕地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」の意味について。これは、天皇の統治を天孫降臨神話による神勅にもとめた明治憲法の「日本版王権神授説」を否定したものである、と述べました。ただ、これはフィクションであるので、国民の総意により天皇の地位は変更可能かというと、そういう法的効果はやはりないのでは、とも述べました。

 (3) では、こうした天皇は一体何ものか?

 ① 天皇は君主だろうか? これについては、君主とは、国家の統治権の重要部分を行使し、対外的に国家を代表する外交交渉権をもつ独任制国家機関をさすという一般的定義によれば、天皇は憲法4条により国政に関する権能を否定されているので、君主ではないことになります

 ② 天皇は元首だろうか? これについては、元首とは、現在では対外的に国家を代表する機関をさしているとする一般的定義によれば、対外的に国家を代表しているのは内閣(外交交渉権をもつ)であると考えられるので、天皇は元首ではない講義しました。

 ③ これに対して、政府見解は、明治憲法下におけるものとは異なるが日本国憲法下においても天皇は君主であり元首であるとしている、と解しているようであると(参照、第71回国会参議院予算委員会における内閣法制局長官答弁)。しかし、この君主・元首には法的権限の伴うものではないので、そういっても「形式的・名目的」なものにすぎないはずである、とも講義しました。

 (4) さいごに、天皇の特殊な地位に基づく天皇の法的責任についてお話しました。

 ① まず、天皇の刑事責任について。

 (ⅰ) 天皇に告訴権があるかというと、天皇、三后および皇嗣の名誉に関する告訴については内閣総理大臣が代行するとする刑法232条の2からすると、天皇にも告訴権があると考えられると思います。

 (ⅱ) では、逆に、天皇が訴追されることがあるか。天皇が訴追されることがあるか否かについて規定したものはありません。ただ、皇室典範21条は摂政について「在任中、訴追されない」と規定しています。また、国事行為の臨時代行に関する法律6条によると、国事行為を代行している皇族はその間には訴追されないと規定されています。これらの規定からすると、在任中は常に国事行為を担っている天皇には、もちろん、訴追権は及ばないと考えられるのではないでしょうか。

 ② で、天皇の民事責任ついては、かつて最高裁は天皇の象徴としての地位に鑑み、天皇には民事責任も及ばないと判示したことがる、と講義しました。ただ、天皇も財産権の主体であることを考えると、その範囲で、民事責任を肯定するのが適切であると思います。

 ということで、次回(27日木曜日)は、では、君主でも元首でもない天皇が日本国憲法上なし得る行為とは何か(国事行為、「公人としての行為」が許されるか)を説いたあと、「戦争放棄」、9条の規範的意味について検討しようと思います。

 

2017年4月23日 (日)

研究会@九大。

 こんなに sun なのに、、、講義準備、、、

 きのうは九州大学で開催されている「九州公法判例研究会」に出席しました。「判例」とついていますが、判例だけの研究会ではありません。というより、どっちかというと、論文テーマの報告が多いと思います。

 で、きのうは、ドイツの行政法理論を基盤とした「機能的自治行政」の民主的正統性論についてと、西宮市の市営住宅で起こった暴力団員退去処分をモチーフにした「暴力団員の人権」に関する研究報告をききました。

 前者の「機能的自治行政」というのは、きっと一定の公的業務を担うことを目的として国家によって設立された法人のことだと思います。これ、法治国家、法律による行政の原理からすると、法律によって厳しく規律される行政組織体外の存在なのに一定の行政業務を担うので上の原理からして正統性がないけど、、、どう考えればいいのか、、、という研究だったのだと思います。わたしの知力の限界を超えていました。

 後者は、よくわかりました。違法行為を行ったらそのことを事後的に制裁するのは当然なのですが、反社会的行為(違法の場合とそうでないグレーの場合があると思います)をくり返してきた組織のその構成員であるという点に着目して、憲法上の権利、法的な権利・利益を制約してよいのか、という問題でした。たいへん興味深いものでした。

 ともにわたしよりずーーっと若い人の研究報告でその意味でも刺激的でした。

Img_1814 で、研究会といえば懇親会beerbottleなわけで。地下鉄中洲川端駅改札でてすぐのお店で。わたしのように遠方(でもないが)からきている人にも配慮してもらったお店セレクションでした。

 ここでは、まぁ、いろいろお話ししたのですが、きのうは、ひとつは、わが社の教育への協力依頼をしました。これは、実質的にはもう走り出しているのですが、いずれ「かたち」も整えられると思います。

 もうひとつ印象的だったのが、各大学の人事、予算状況です。まぁ、この時期に大学教員が集まると、こういうお話しになってしまうのですが。旧帝国大学と公立大学の同業他社様は、まだ、そこまで教員数の削減、人事凍結、、、的にはなっていないとのこと。たしかに、両者様も後任補充してますものね。こういったところにも、わが社のおかれた「びみょう~な立ち位置」みたいなものの影響があるのでしょうね。

Img_1816 という感じで、わたしは二次会は失礼して帰路に。

 ことしは「大役」が依頼されているので、その前にこの研究会でも報告して、そのご指示をいただきました。ちゃんと勉強しようと思いました。

 それにしても、昨年の熊本地震以降、いろいろなお仕事をいただく機会が増えたように思います。きっと、あの地震があって「そういえば、熊本に、おびなた、とかいうのいなたなぁ~」と思い出していただいたのではないか、と思っています。生きているといろんなことがあると思うので、なんでも人生の糧にして、いいようになっていけばいいなぁ、と思います。

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