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2009年3月

2009年3月30日 (月)

天草ドライブ。

 くもりです。週末は1000円高速道路は渋滞すると思ったので、高速道路をつかわなくてよいドライブをしました。目的地は、天草。

Cimg1985 ちょっとグロテスクな画像ですが……。

 ある審議会の委員になり、天草に行く機会があると思ったので、ちょっと下調べに行きました。遠かった……。自宅から2時間30分ぐらいかかりました。

 道の駅・有明で昼食をとりました。

Cimg1986 Cimg1987_2

 「日本一のタコの町」ということで、タコ天丼(左)と海鮮丼(右)です。なんの変哲もない道の駅のレストランでしたが、味はよいものでした(2つで2000円です。同じような値段だったのですが、正確な内訳は忘れました)。「ありあけタコ街道」にはそれなりにお食事処があるのですが、はずれを引きたくないとお思いの方には、道の駅・有明の食事をお勧めします。

 道の駅・有明には「リップルランド」という温泉施設もあるので、いずれ利用してみようと思います。

2009年3月28日 (土)

華氏451

 曇り。天気は下り坂か。

 フランソワ・トリュフォー監督作のSF「華氏451」を観ました。

 設定は「書物は人を不幸にする。書物は人を反社会的にする」とされ、書物が禁止された未来社会。この映画は、書物所持が違法行為とされたこの社会で、書物焼却に従事するファイアーマンが、書物を読むことの意義に芽生えていく物語です。

 きっかけは通勤電車のなか。教師見習に扮したブックピープルが、あるファイアーマンにこういいます。「あなたは燃やす本を読んだことがある?」。その言葉以来、彼女のこと、そして何よりも本を読むことが気になったファイアーマン。ある伝記を読むことで「本の背後には人間がいる」と感じた主人公が、職を辞して、ブックピープルの住む村まで逃げます。

 物語のクライマックスは、ブックピープルの住む村の様子です。そこの住人は本なのです。彼らが一人一冊の本を暗記している。人が本である図書館。人類の知的遺産が、ここで伝承されている。本編112分の充実した映画でした。

 ところで題名の「華氏451」は、本のページに火がついて燃え上がる温度のようです。

 映像終了後では、無断複製は著作権法違反であるとの注意画面が現れます。ただ、本を頭のなかに複製することまで、法律で禁止できませんよね。

2009年3月26日 (木)

高校から大学への憲法

 少し冷えていますが、晴れています。

 法律文化社から『高校から大学への憲法』が刊行されました。

 本書は、高校で学んだことと大学での憲法の授業を架橋するための本です。具体的には、高校で使われている地歴・公民科の教科書にゴシック体でのっている用語を網羅して、大学で学ぶ憲法のテキストを作りました。高校で学んでいるはずのことが学生に定着していないことを危惧した編者の先生のもと、12名の若い(わたしも含め)公法学者により書かれています。ちなみに、わたしは「第3章 国民主権」を担当しています。

 法学部への新入生に読んでもらいたいところですが(このブログをみているはずはないので・・・)、憲法の基本を確認したい在学生にも読んでもらいたいところです(出版社としては、購入して読んでもらいたいところでしょうか)。

 ところで、姉妹編として『高校から大学への法学』も、同時に刊行されています。この本は、日頃からお世話になっている同僚先生も、執筆陣に加わった充実の1冊です。2冊同時にご購入いただければ、感無量です。

 それにしても、講義・教務事項が終わり入試が済んで、まだ新学期が始まらないこの時期が、大学教員にとって一番、よい時期ですね。この麗しい日々がずっと続けばいいのに・・・と思ったりしますが、夢から覚めるのは早いようです。

 先日、図書館に行ったら、新学期にわたしが担当する科目の教科書をすでに購入し、予習を進めている学生から質問を受けました。わたしは来期、憲法の統治の部分について講義するのですが、この学生の姿勢に感化され、講義準備を進めてきました。総論、国会・内閣・裁判所といった各国家機関についての部分を終わり、あとは財政、地方自治というところまできました。来週中には、なんとか全範囲について、一応の準備が終わります。学生の期待に応えられる講義ができるか甚だ心もとないところですが、なんとか自分の責を塞げたらと思います。

2009年3月25日 (水)

入門 制度経済学

 昨日、一昨日より少し気温は低めですが、よい天気です。

 今日は勤務校で卒業式がありました。みなさま卒業おめでとうございます。

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 卒業式ということで、桜の画像を。これは五高化学実験場わきに咲いた桜です。

 というわけで(?)、本日は、シャバンス『入門 制度経済学』(ナカニシヤ出版、2007年)を読みました。

 経済を「制度化されたもの」とみる制度経済学の諸学派の代表的見解が、コンパクトに整理された好著です。専門用語も簡単な(わかりやすい)説明が付されていて、初学者のわたしでも、最後まで読み切ることができました。

 ところで「制度」とはなにか。これ、ひとことで言うのはものすごく難しいと思うのですが、長い間に生成されてきた非意図的な行為の枠組・コードのようなものでしょうか。論者によってマチマチなのですが、貨幣、市場、道徳などが、制度の例だと思います。文法とかあいさつ・マナーなども、ここにいう制度です。

 こういう制度の分析を通して、非意図的なものの意図的なものに対する優位性を明らかにして、社会主義批判(設計主義批判)を展開したのがハイエクでした。経済学における制度学派の知見から一般理論を抽出し憲法理論にそれを照射してみることはまだまだ先になりそうですが、まずは制度的分析手法の概要、有意性を把握すべく、さらなる読書を展開したいと思います。

 そういえば、第2回WBCは、日本の連覇で終わりましたね。投手の投球数制限はリトルリーグを思わせるルールですが(わたしの頃は、たしか1週間で6イニング?しか投げられなかったはず)、3年後の次回大会では、どのようなトンデモ・ルールになるのでしょうか。アジアから1チームとかになったりして・・・。

2009年3月23日 (月)

琉球弧に生きるうるわしき人たち

 快晴!勤務校の桜は、満開とってもいいのですが、少し控え目で八分咲きということろでしょうか。

 WBCで日本はアメリカに9-4で快勝。あすはいよいよ韓国との決勝戦です。韓国は日本の緻密な野球にキューバやアメリカのパワーを備えた野球をするので、どうなるでしょうか。

 ところで読書は進み、本日は、小林照幸『琉球弧に生きるうるわしき人たち』(岩波書店、2004年)を読了しました。

 著者は「琉球弧」を「うるま」と読ませています。

 米軍統治下で祖国復帰を願い、“日の丸”を米軍統治への反抗のしるしとして掲げた沖縄。そこには日本国憲法への憧れがありました。

 1972(昭和47)年5月15日に日本復帰を果たした沖縄の期待に、日本政府はどうこたえてきたでしょうか。5月15日という日付に象徴されるように、日本国と合衆国の両政府の都合に翻弄された沖縄返還。その沖縄を、わたしたちはどのように感じてきたでしょうか。(5月15日という返還日は、日米両国の会計年度開始日の中間点という理由で、決められました)。

 本書は、基地のこと、平和のこと、文化や伝統のこと、これらについての沖縄と本土との間になる距離間、そして距離感をうめる、「もうひとつの沖縄ノート」です。

 ところで著者は、わたしの小学校時代の友達のお兄さんです。この友達はクラスのなかでもとてもよくできる人で、夏休みの「ひとり一研究」で、たしかテントウムシの研究で大きな賞をもらっていたのでは。当時からそのお兄さんは、よりできると評判だったので、この名前はよく覚えています。

 長野在住の人の本なので、たとえば、「小学校1年生の5月・・・長野駅前の百貨店で生きた蛇の巡回展が行われ・・・」というような記述の「駅前の百貨店」がすぐ「ながの東急」のことだとわかったりして、楽しく読むことができました。(小林兄弟は、ながの東急といえば、蛇や昆虫といった展示会を思い浮かべるアウトドア派だったと思います。わたしなど、ながの東急の催物といえば「将棋まつり」を思い浮かべるインドア派でした)。

 とまぁ、勝手なことを書きましたが、たしかな取材をもとに構成されている本書は、読み応えのある沖縄関係本でした。

 (ただ257~258頁あたりの、沖縄には花火大会がない、という趣旨の記述。沖縄で一時期を過ごしたわたしの経験からいうと、沖縄にも花火大会はあった、と思います。著者は小学校の頃に「海洋博」に憧れていたとありますが、その海洋博記念公園で、例年盛大な花火大会が行われていました)。

2009年3月22日 (日)

「芸能と差別」の深層

 本格的な雨に、咲き始めの桜が晒されています。

 「沈黙の期間」に、三國連太郎さんと沖浦和光さんの対談『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫、2005年)も読みました。(沖浦さんは、比較文化論、社会思想史を専門とされる学者さんです)。

 日本の芸能には、社会の底辺にあって賤民視されていた遊芸民が深く関わっているようです(18頁参照)。本書は、能・狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎、大衆演芸といった伝統芸能の始原と、それらの演者をとりまいていた環境についての対談です。

 わたしは、釣りバカ日誌のスーさんでお馴染みの三國連太郎さんが、これほどまでに芸能史、芸能論を勉強していることに、驚かされました。三國さんの破天荒な人生も語られていて、あっという間に読み切りました。

 また、世阿弥の芸能論、『東海道四谷怪談』、『桜姫車文章』で知られる鶴屋南北、近世では永井荷風などの芸能論も適宜解説されていて、読みごたえもありました。

 どうやら芸能者が賤視されたのは、幹非の法家思想の影響のようです。直接生産活動に従事していない者が〈賤〉とされたようです。この意味では、学者もそうでしょうね。社会秩序を揺さぶり、ときに預言者的なところもあったのでしょうから。本書のなかには、シャーマン的な職も賤視されたとありました。

 本書で印象に残っている部分は、つぎのところです。三國さんの役作りについての話の場面で、以下のような対話がなされています(100頁)。

 (沖浦)「研究者も同じですね。自分の情念というか、『思い入れ』が入らない論文は、やっぱりいくら書いてもダメなんですね。『これは書かんといかん』『なんとしても書きたい』と、グーッと気持ちが入らないと、パンチ力のある生きた文章にならない。・・・」

 (三國)「よく分かります。私も自分の実人生と、演じている役柄は全く別人格だと思って、若い頃はやってきたんですけどね。しかし、自分と演じている人物は全く別の人格だと割り切って、その役を演じ切ることはできない、それは錯覚だったと気がつきました。・・・」

 わたしの研究など、ダメダメですね~。「〈気〉や〈情〉が入っていないと、いくら書いても自分の生きたコトバにならないで、形骸化した文章しかできません」という沖浦さんの言葉。耳が痛い言葉でした。

2009年3月21日 (土)

カラマーゾフの兄弟

 暖かい花見日和の日。久しぶりに娑婆の空気を吸いました。

 この長い沈黙期間に本棚の肥やしになっていた、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。

 【第1巻】「わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている」という書き出しに始まる「著者より」から、全篇4部構成からなるうちの第1部が収録されています。

 登場人物の紹介、人物像の記述が中心の第1部ですが、ドストエフスキーの手による文章の背景を読み解けば、第1部の意義はそれにとどまりません。この点については、訳者である亀山郁夫さんが巻末に付した「読書ガイド」を参照してください。

 わたしは、教会と国家との関係について、教会が裁判など国家の任務を代行することで国家の上位に立つべきであるというドストエフスキー自身の見解を、カラマーゾフ家の次男イワンにより語らせている第2編「場違いな会合」など、序盤から読み応えのある場面が続いていると感じました。

 また、第3編「女好きな男ども」の中の一文、「理性には恥辱と思えるものが、心には紛れもない美と映るもんなんだよ」は、美(エロス)の本質を説く名文だと思いました。

 【第2巻】4部構成の第2部です。巻末の亀山「読書ガイド」は、古典派交響曲の楽曲構成に準えて「緩徐楽章」にあたるとしています。これも「読書ガイド」にあることですが、ここでは「個性派脇役」の記述が中心です。

 また、第1部との関係では、ヴォルテール哲学(とくに彼のライプニッツ・楽天主義批判)とゲーテ『ファースト』(とくにその第2部フィナーレの「天使に似た教父」)を典拠とした、神の存在についてのイワンの論述が興味を引きます。

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟」の中で「ヨハネの福音書」第12章24節のつぎの言葉を3度ひいています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ」。これなんか、よい言葉ではないでしょうか。

 【第3巻】前半は、主人公・アレクセイ(三男)が敬愛するゾシマ長老の遺体から発せられた「腐臭」によるその権威の揺らぎ、長兄ドミートリーの恥辱とカラマーゾフ家と深くかかわるグルーシュニカの過去の恋愛の清算が中心に描かれています。

 後半は、「父殺し」の嫌疑をかけられた長男ドミートリー(ミーチャ)への尋問の様子が中心です。ここを読むと、興味深いことに、本書執筆当時のロシアにもいわゆる適正手続の思想があったことがわかります。

 ところで、名前の煩雑さ・複雑さが嫌われるロシア文学ですが、各巻の中心登場人物名とその役どころを記したしおりが各巻に付属されていて、読みやすくなっています。

 【第4巻】次男イワンと真相を語るカラマーズフ家の下男スメルジャーコフ(イワンに唆されてフョードル(カラマーゾフ父)を殺したという。スメルジャーコフはフォードルの子か?)のやりとりと、ミーチャ(長男、ドミートリー)を被告とする「父殺し法廷」の様子が描かれています。

 とくに敏腕弁護士・フェチュコーヴィチの立証されたもの(裏づけのあるもの)だけを重視する法廷戦術が見ものです。フェチュコーヴィチは、当事者の心理分析に頼りすぎることにも、反対しています。

 ここではフェチュコーヴィチ最終弁論の一節「子どもをもうけただけではまだ父親ではない、父親とは、子どもをもうけ、さらにそれにふさわしいことをした者のことだ」(649頁)が、心に響きました。

 文庫本で700頁弱の第4巻には、登場人物の言葉の端々に、興味深いテーマがちりばめられています。そのなかでも、歴史・古典語に関する学問論に目が留まりました。たとえば、国家・都市を建設するということは、なにを意味するのか。古典語は各国語に訳されているのに、それでも古典語を学ぶ意義はなにか。こういうことが、今回の読書では気になりました。

 【第5巻】まず、エピローグには、外伝的後日談が3編おさめられています。

 また、訳者・亀山郁夫さんによる「ドストエフスキーの生涯」には、『カラマーゾフの兄弟』のモチーフとドストエフスキーの生涯との関係が説かれています。どうやら本書は、ドストエフスキーの自伝的性質をもつ作品のようです(89頁参照)。

 さらに「ドストエフスキーの生涯」には、彼の作品を評して、以下のような記述があります。「問題とされたのは、社会における裁判の役割、人間の責任能力、暴力に対する国家の権利、死刑、裁判における証拠の役割、そして誤審等の問題である。こうした法の根幹に関わる問題とふれることで、彼の小説は、はるかな深みを獲得していったと考えることができる」(100頁)。ドストエフスキー小説のテーマを法学者の眼で見てみることも、意義深いことかもしれません(西洋法制史のテーマでしょうか)。

 これも訳者・亀山さんの手による「解題」には「再読を考える読者のみなさんにぜひともお願いしたいのは、プロットの単線的な流れと複線的な流れ、すなわち、どこでだれが同時に何をしているか、という点をつねに念頭に置きながら、読み進めてほしい」(182頁)とあります。ダイヤグラムを意識した読み方をすると、また違った味わいがあるということでしょう。

 「父殺し」の話であることは知っていたのですが、遅ればせながら、はじめて『カラマーゾフの兄弟』を読みました(恥ずかしながら)。論理哲学者ヴィトゲンシュタインは、10度を超えて、これを読み返したとのことです。合計2000頁を超える本書を読み返す機会は生涯に何度もないでしょうが、近いうちに必ずや再読に挑戦してみたいと思います。

 ドストエフスキーは、本書の続編ともいえる「第二の小説」を予定していながら、60歳で死亡しました。本書をはじめてよみ、『カラマーゾフの兄弟』は、人類がついに手にすることができなかった未完の作品であることも知りました。

2009年3月 7日 (土)

鮨とコーヒー。

 晴れました。

 昨日は同僚先生と巷で話題になった、時蔵というお鮨屋さん(二代目正六 鮨屋時蔵)に行きました。このお鮨屋さんの様子は、「銀髪グルメ紀行」さんのHPで詳しく紹介されています。ttp://codawari.info/ginpatsu/archives/2009/01/post_1145.html

(HP上のリンクは著作権侵害にはあたらないと思いますが、興味のある方は、直接入力で訪ねてみてください)。

 お鮨はもちろんのこと、お通しや別に頼んだお造りも、それぞれ「仕事」がされており、久しぶりにまともな(廻っていない)ものを食べました。

 そのあと、熊本市・上乃裏通りにある「はんの木」という喫茶店に行きました。コーヒーの好みを伝えれば、それに合わせるようにマスターがコーヒーを入れてくれる店でした(一応、メニューもあります)。カウンターでは常連客と思しき方々がおられました。

 いつもながら同僚先生の話題の多さには圧倒されます。わたしなど人間が“小さい”ものですから、気の利く話のひとつもできません。わたしなどをお仲間に入れてくれる同僚先生に、いつも(心の奥底の方で)感謝している次第です。

 明日から2週間ほど出勤しないので、今日は、卒業祝賀会のメッセージや某審議会の資料読みと意見提示、学生便覧に掲載する大学院の授業内容の文面など、雑務をするために出勤しております。春休みなのに勉強できないディレンマを感じています。

2009年3月 4日 (水)

最終講義。

 今日も少し、雨模様です。昨日から冷え込みもぶり返しています。

 本年度末で定年退職される西洋法制史の先生の最終講義が昨日ありました。テーマは「歴史犯罪学の一断層-『嬰児殺し』から-」でした。

 最終講義を受けてみて、先生が楽しそうにお話しされていることが印象的でした。わたしも、先生のご本などを読んで、勉強してみたいと思わせるものがありました。

 そこでわたしの講義を振り返ってみると・・・、先生の講義とは正反対だったのでは。学生に随分と詳細な情報を与えて、さまざまな理論を解き明かすことをしようとしているために、学生がもう講義だけで“おなかいっぱい”になってしまっているのでは、とハタと思いました。学生の自学・自習を促すような講義というのは、昨日の講義のようなことをいうのかもしれないと感じました。

 年季のはいった名講義を聴くと、学生でなくとも、得るものが大きいと感じた一日でした。

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 昨日は、ひな祭りでした。これは今年のわが家のひな人形です(本物もあります)。

 今日はこれから卒業判定のためのキョーム委員会があります。そのあとパンキョーの全学委員会もあります。ため息のでる一日ですが、めざまし占いの今日のふたご座は「ミラクルパワー全開」のようです。ミラクルパワーは学問に費やしたいところですが・・・。

2009年3月 2日 (月)

致命的な思いあがり

 よく晴れています。花粉もびゅん、びゅん、飛んでいます。

 週末に読みかけていた、ハイエク『致命的な思いあがり』(春秋社、2009年)を読みました。

 この本は、春秋社から刊行されているハイエク全集第Ⅱ期の第1巻として配本されたものです。訳者は、ハイエクをはじめ、ロールズ、ローティ研究に精通しておられる山口大学の渡辺幹雄先生です。

 古賀勝次郎「解説 - 自由主義社会のマニフェスト」にあるように、本書は「ハイエクの60年以上にわたる学問・研究が最後に辿りついた地点を簡潔に論じ」(235頁)たものです。そのハイエクの到達点というのは、一言でいえば、中央計画経済・統治の不可能性、社会主義・設計主義の非合理性ということろでしょうか。本書では、このことが、たたみ掛けるように説かれています。

 貧困、格差社会、(新)自由主義経済の悪弊が声高に説かれている現在、ハイエクの言説は、なかなか受け入れられないものなのかもしれません。ただ、長期的視点にたったとき、ハイエクは、説得力ある経済思想、法思想を提供したと思います。

 わたしはそのハイエクに聞いてみたいことがあります。それは、貧困、格差社会、経済大混乱という状況に、政府は、市場介入、企業の国営化、ケインズ的雇用・需要創出といった政策を、一時的にでも、するべきではないのかということです。もしそうだとすると、上記のような状況を、どうしたら乗り越えられるのか、ということです。100年に一度の(未曾有の)経済危機に対する処方箋を、ハイエクに聞いてみたいものです。

 彼はバブル経済崩壊後の1992年に亡くなっているので、この問に答えてもらうことはできません。ただ彼が生きていたら、いまのオバマ政権をどのように評価するのでしょうか。ハイエキアンの方、いかがですか?

 それにしてもこの本の題名、わがことのように感じて、ギックッとしました。わたしだけでしょうか。

 週末には、研究室の中も外も、雨が降りませんでした。

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