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2009年3月21日 (土)

カラマーゾフの兄弟

 暖かい花見日和の日。久しぶりに娑婆の空気を吸いました。

 この長い沈黙期間に本棚の肥やしになっていた、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。

 【第1巻】「わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている」という書き出しに始まる「著者より」から、全篇4部構成からなるうちの第1部が収録されています。

 登場人物の紹介、人物像の記述が中心の第1部ですが、ドストエフスキーの手による文章の背景を読み解けば、第1部の意義はそれにとどまりません。この点については、訳者である亀山郁夫さんが巻末に付した「読書ガイド」を参照してください。

 わたしは、教会と国家との関係について、教会が裁判など国家の任務を代行することで国家の上位に立つべきであるというドストエフスキー自身の見解を、カラマーゾフ家の次男イワンにより語らせている第2編「場違いな会合」など、序盤から読み応えのある場面が続いていると感じました。

 また、第3編「女好きな男ども」の中の一文、「理性には恥辱と思えるものが、心には紛れもない美と映るもんなんだよ」は、美(エロス)の本質を説く名文だと思いました。

 【第2巻】4部構成の第2部です。巻末の亀山「読書ガイド」は、古典派交響曲の楽曲構成に準えて「緩徐楽章」にあたるとしています。これも「読書ガイド」にあることですが、ここでは「個性派脇役」の記述が中心です。

 また、第1部との関係では、ヴォルテール哲学(とくに彼のライプニッツ・楽天主義批判)とゲーテ『ファースト』(とくにその第2部フィナーレの「天使に似た教父」)を典拠とした、神の存在についてのイワンの論述が興味を引きます。

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟」の中で「ヨハネの福音書」第12章24節のつぎの言葉を3度ひいています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ」。これなんか、よい言葉ではないでしょうか。

 【第3巻】前半は、主人公・アレクセイ(三男)が敬愛するゾシマ長老の遺体から発せられた「腐臭」によるその権威の揺らぎ、長兄ドミートリーの恥辱とカラマーゾフ家と深くかかわるグルーシュニカの過去の恋愛の清算が中心に描かれています。

 後半は、「父殺し」の嫌疑をかけられた長男ドミートリー(ミーチャ)への尋問の様子が中心です。ここを読むと、興味深いことに、本書執筆当時のロシアにもいわゆる適正手続の思想があったことがわかります。

 ところで、名前の煩雑さ・複雑さが嫌われるロシア文学ですが、各巻の中心登場人物名とその役どころを記したしおりが各巻に付属されていて、読みやすくなっています。

 【第4巻】次男イワンと真相を語るカラマーズフ家の下男スメルジャーコフ(イワンに唆されてフョードル(カラマーゾフ父)を殺したという。スメルジャーコフはフォードルの子か?)のやりとりと、ミーチャ(長男、ドミートリー)を被告とする「父殺し法廷」の様子が描かれています。

 とくに敏腕弁護士・フェチュコーヴィチの立証されたもの(裏づけのあるもの)だけを重視する法廷戦術が見ものです。フェチュコーヴィチは、当事者の心理分析に頼りすぎることにも、反対しています。

 ここではフェチュコーヴィチ最終弁論の一節「子どもをもうけただけではまだ父親ではない、父親とは、子どもをもうけ、さらにそれにふさわしいことをした者のことだ」(649頁)が、心に響きました。

 文庫本で700頁弱の第4巻には、登場人物の言葉の端々に、興味深いテーマがちりばめられています。そのなかでも、歴史・古典語に関する学問論に目が留まりました。たとえば、国家・都市を建設するということは、なにを意味するのか。古典語は各国語に訳されているのに、それでも古典語を学ぶ意義はなにか。こういうことが、今回の読書では気になりました。

 【第5巻】まず、エピローグには、外伝的後日談が3編おさめられています。

 また、訳者・亀山郁夫さんによる「ドストエフスキーの生涯」には、『カラマーゾフの兄弟』のモチーフとドストエフスキーの生涯との関係が説かれています。どうやら本書は、ドストエフスキーの自伝的性質をもつ作品のようです(89頁参照)。

 さらに「ドストエフスキーの生涯」には、彼の作品を評して、以下のような記述があります。「問題とされたのは、社会における裁判の役割、人間の責任能力、暴力に対する国家の権利、死刑、裁判における証拠の役割、そして誤審等の問題である。こうした法の根幹に関わる問題とふれることで、彼の小説は、はるかな深みを獲得していったと考えることができる」(100頁)。ドストエフスキー小説のテーマを法学者の眼で見てみることも、意義深いことかもしれません(西洋法制史のテーマでしょうか)。

 これも訳者・亀山さんの手による「解題」には「再読を考える読者のみなさんにぜひともお願いしたいのは、プロットの単線的な流れと複線的な流れ、すなわち、どこでだれが同時に何をしているか、という点をつねに念頭に置きながら、読み進めてほしい」(182頁)とあります。ダイヤグラムを意識した読み方をすると、また違った味わいがあるということでしょう。

 「父殺し」の話であることは知っていたのですが、遅ればせながら、はじめて『カラマーゾフの兄弟』を読みました(恥ずかしながら)。論理哲学者ヴィトゲンシュタインは、10度を超えて、これを読み返したとのことです。合計2000頁を超える本書を読み返す機会は生涯に何度もないでしょうが、近いうちに必ずや再読に挑戦してみたいと思います。

 ドストエフスキーは、本書の続編ともいえる「第二の小説」を予定していながら、60歳で死亡しました。本書をはじめてよみ、『カラマーゾフの兄弟』は、人類がついに手にすることができなかった未完の作品であることも知りました。

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