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2010年1月

2010年1月30日 (土)

J・D・サリンジャー

 きょうも晴れそうです。勤務校でも大学入試センターの追試が実施されます(詳細不明)。

 今月の27日に「ライ麦畑でつかまえて」の作者、J・D・サリンジャーさんが、アメリカ・ニューハンプシャー州の自宅で死亡したとの報道が、昨日ありました。91歳とのこと。またまたわたしの無知無学をさらけ出すようですが、まだ存命だったとは知りませんでした。

 「ライ麦畑でつかまえて」は、日本でも有名なアメリカ小説ですよね。たしかジョン・レノン暗殺犯が犯行時に所持していたとも聞いています。

 この有名な小説、わたしも高校時代と大学時代に読みました。が、結局わたしにはよくわからない小説だったという記憶があります。内容は、名門高校を中退した青年が大人社会を冷めた目で見つめる、というものだったと思うのですが・・・。やはりわたしには文学的センスはないのでしょうね。

 時間があったら(といいながら、きっとないでしょうが・・・)村上春樹さんの訳で読み返してみたいと思っています。

2010年1月29日 (金)

県庁へ。

 これから晴れるのでしょう。

 昨日はある審議会に出席するため、県庁にいきました。

Cimg2610

 会場は13階の「展望会議室」でした。さすがに会議場内から撮影したら顰蹙か、と思い、エレベータ脇からの撮影に自重しておきました。自重したせいで、なんの変哲もない画像になってしまいました。審議会の時間が迫っていたもので・・・(本当は、競輪場を撮りたかったのですが、競技場に隠れてしまいました)。

 きょうは月の最終金曜日ということで、別の審議会に出席します。最近は、仕事のあることの有難さを忘れてしまうくらい、忙しい状態です。

 ようやく卒業論文から開放されたのもつかの間、週末は来週ある修士論文審査のためめの準備をしなければなりません。みなさん大論文なので・・・、なかなか大変です。

2010年1月27日 (水)

テニスクラブ。

 快晴です!が、夕刻から夜にかけては雨の予報です。

 昨日、ゼミの「追コン」でテニスクラブにいきました。

Cimg2609

 テニスクラブといっても、そこはステーキハウスでした。花火が消える前に撮影しようと思ったので、うまくピントが合いませんでした。

 店に入るとそこはラウンジ風(?)の内装でちょっと“えっ~”と思うのですが、中央にある鉄板でステーキをはじめ、いろいろな料理を準備してもらえます。学生の利用もあるようで、料理の質・料のわりには、とてもリーズナブルな価格でした。

 熊本・下通りから少し入ったドンキの近く、少しわかりにくい立地ですが、学生は良い店を知っているものだ、と感心しました。

2010年1月25日 (月)

たまごあいす。

Cimg2607  冬でもアイス!ということで、コッコファームの食堂でいただける「たまごあいす」です。たしか300円。

 卵をたっぷり使ったアイスに、黒蜜ときな粉がかかっていて、和風テイストです。“たまご感”あふれる味でした。300円はお手頃で、評価。

コッコファーム。

 寒い。小雨。Cimg2601

 妻が「卵が買いたい」というので、菊池にあるコッコファームに行きました。卵なんて、ヒロセにあるのに・・・。

 ヒヨコ(よりはかなり大きい「中ひなどり」)です。さすがに卵がかえる瞬間は見れませんでしたが、生まれる瞬間を見ることは出来ました。

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 ♪「バナナもちょっぴり実ってる~」ということで、バナナ・ハウスにも入りました。別世界のように暖かかった・・・。なぜ、バナナなのか?

 いまいち明確ではないのですが、鶏のふんを利用しての栽培のようです。

 鶏肉、卵などが販売されている「ふれあい館」とは別の場所に、食堂があります。

Cimg2605

 そこでいただいた「特上 親子丼」です(1日に10食限定!とのこと)。なかなか美味でした。

2010年1月21日 (木)

厄払い。

 くもり、ちょっとだけ、雨。

 わたくし本年、厄年ということで、水前寺公園の中にある出水神社に厄払いに行きました。

Cimg2596 妻が知り合いからここがよい、と聞いたようなので。

 豪華というわけではありませんが、厳かな造りの立派な神社でした。玉串を捧げお祓いを受けたので、わたしの厄も落ちたことでしょう。

 神社といえば、最高裁判所は、昨日、北海道砂川市が市内にある空知太(そらちぶと)神社に市有地を無償提供していることについて、憲法が定めた政教分離原則に違反する旨の大法廷判決を下しました。政教分離に関して最高裁が違憲判決を下したのは、1997年の「愛媛玉串料訴訟」以来のことです。

 この空知太神社は集会場などとして利用される建物の一角に祠があり、また外側には鳥居が設置されているというもののようです。判決文を実際に検討したわけではないのですが、どうやらこの外形的事実からして、社会通念に照らすと、市が特定の宗教団体に対して特別の便宜を与えていると評価される、という点が判決のポイントのようです。

 また違憲状態を解消するためには、祠や鳥居の撤去や土地の明け渡しなど方法が考えられるのですが、それでは逆に信者の信教の自由を侵害するかもしれないので、違憲状態を解消するその他の適切な方法を考えるように、と審理は原審に差し戻されました。

 地方公共団体が所有する土地の上に宗教団体の施設がある例は全国にたくさんあるようです。そこには施設提供の歴史的由来などがあるのでしょう。

 そういうことで、厄払いに行ったことから“神社つながり(?)”で軽々に論じてしまいましたが、本件は判決文をじっくりと吟味すべき最高裁の重要判例だと思います。

2010年1月20日 (水)

法教育

 ここ数日、暖かい日が続いています。

 法学セミナー2010年2月号に「法教育」に関する特集がありました。「なぜいま『法教育』か-学校教育で法を教える」というものです。ざっと読んでみました。

 なんでも学習指導要領の改訂(小中学校は2008年、高校は2009年)で、初等中等教育で「法教育」を実施することが求められるようになり、2011年度から2013年度にかけて、全国の小中高で順次全面実施されるようです。そうだったのですか~。

 いままでも社会科、公民科、政経などで、法的な内容は結構扱われていたと思うのですが、今回の学習指導要領改訂で、「新たな法教育」がはじまるそうです。といっても法セミの記事を読むとまだまだ試行錯誤状態のようで、2009年度からはじまっている移行期間の実施状況などを検討して、徐々に教育内容が確定していく、というところでしょうか。

 この法セミの中で、渡邉弘さんが、法教育実施における法学研究者の役割について、つぎのように言っています。

 「初等中等教育の教員の多くが、法に関する教育を難しいもの、手に負えないもの、と感じている現実があるなかで、法学を学ぶ者には、緻密な理論的研究を前提としつつも、彼らの切実な問いに答え、共同で法教育のあり方を探る責務が課されているように思われる」(18頁)。

 またまた、なかなか大変になりそうですが、法学研究を仕事としている以上、社会的要請には応じなければいけないでしょうね。

 ところで、この特集には憲法学者の斎藤一久さんも寄稿されています。その冒頭部分に、「生物学の研究成果に基づき、理科の教科書が執筆されているように、憲法学に基づき憲法教育が構築されているはずえあるが、実際のところ、両者の間には隔たりがある」との件があります。その具体的内容をいくつか斎藤さんは以下、紹介していくのですが、本当にそうですよね。わたしも大学に入って憲法を学んで、目から鱗が取れる思いをしたのを覚えています。たとえば、わたしとあなたの関係に憲法は適用されないこと(いじめやセクハラなどは「人権問題」ではあっても「憲法問題」ではないこと。この「人権問題」という言い方も誤導的ですが)や「国民の義務」も憲法上は法的なものではないことなど、やはり大学に入ってから知ったことです。これらのことは、近代立憲主義の意義(や思考枠組)について理解すれば、そこから演繹される結論なのですが、初等中等教育では立憲主義について本格的には学びませんものね。

 ともあれ、法教育実施にあたって一介の法学者であるわたしも、なんか考えておかなければならないというところでしょうか。こんなことを思いつつ、ランチタイムまでの時間を過ごしました。

 本日は教授会の後、公法分野の先生で新年会があります。はじめての試みでなんとなくウラがありそうですが、まぁ、末席をけがしてこようと思います。

2010年1月18日 (月)

ぼくはこんな本を読んできた

 はれ!今週中盤までは暖かくなるようです。

 大学入試センター試験の監督から外れた週末、立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫、1999年)を読みました。

 この本は昨年末に読んだ、立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』(文春新書、2009年)の中で、佐藤優さんが外務省の新採用官僚に対する研修の際に教科書としているとあったので、本棚から出して読んでみました。

 この中には、立花さんが中学生のときそれまでの自らの読書歴を省みていた「僕の読書を省みる」や、仕事場・書斎である通称「ネコビル」の建設模様、秘書採用の様子などがあり、大変、面白い本でした。

 また立花さんの「本の評価」について、つぎのような見解が述べられています。

 「もう一つ普通の書評はとりあげないけれど、私が積極的に言及しているポイントに、本の造りの問題がある。編集、造本、紙質、印刷、装丁、デザインならびに、価格の問題である。本というのは、内容だけで評価されるべきでなく、上述のようなポイントをすべて含めて、さらにコストパフォーマンスも勘案して評価されるべきだと思っているからである」(207頁)。

 たしかに、これは高いな~と思う本や、逆にお手頃・・・と思うものもありますよね。この立花さんの見解からすると、やはり本は実際に自分の手にとって目で確かめて買う、ということが重要になるということでしょうか。

 それにしても仕事とはいえ、たいへんな読書家ですよね。読書することを仕事の一環にできるなんて、幸せなことなのでしょうね(あっ、わたしもその部類でしょうか)。

2010年1月16日 (土)

文献渉猟。

 はれ。大学入試センター試験が実施されています。わたしは運よく、今回の監督は免れました。実施や監督にあたられた大学関係者の各位、本当にお疲れ様です。

 ところでわたしはいままで、月に一度は勤務校の資料室にこもって、その間に公表された諸先生方の論文を渉猟してきました。ところが、勤務校の資料室を含めた建物全体が、耐震補強工事の関係で利用しずらくなったことを口実に、このところその文献渉猟をサボっていました。年が改まり、これではいけないと思い立って、センター試験の監督を免除された機会を生かして、先週の土曜日と今日、久しぶりに文献渉猟をしました。

 およそ1年ぶりぐらいの(サボりすぎ)文献渉猟だったので、その間にたくさんの論文が発表されていました。全国の法学部で法科大学院が開設され、また、大学業界一般に教育・研究以外のことで忙しくなったと夙にいわれていますが、それでも、法科大学院開設以降、研究業績そのものは増えているのではないでしょうか。1年まとめて文献を見たからかもしれませんが、そのような印象を受けました。

 このところは大学も第三者機関の評価を受けるようになり、また自己点検・自己評価も課されているので、その関係で業績が増えているのでしょうか。さらに最近では教授へ昇進するために必要とされる業績も厳しくなっていることによるのかもしれません。まぁ、しっかりと研究業績を残し続けることは大学教員個々の能力を高めると同時に、学部全体の水準を向上させることになるので、学生サーヴィスの点からもよいことかもしれません。

 わたしも業界の波に乗り遅れないようしっかりと勉強しなければと思いつつ、せっせせっせとコピーしました。

 ことろでそうして手に入れた複写物のひとつに、明治大学の宮崎繁樹先生による「ローマの法・格言・法諺抄」法律論叢81巻4・5合併号(2009年)があります。これは欧米の法律書を読んでいるとたまに出てくるラテン語や法諺をまとめて紹介している資料です。それらがアルファベット順に掲載され、ときにラテン語の語源と思われるものも解説されていて、すぐれものです。そのなかには、わたしの好きな「賢者は気分を支配し、愚者は気分に従う。(Animo imperat sapiens, stultus servit.)」や「思想は処罰されない。(Cogitationis poenam nemo patitur.)」もありました。

 ラテン語の法諺をさりげなく使えると、なんだか賢げですよね~。スポーツも勉強もスタイルが重要ですから、法諺や法の格言なんかをすらっと言えるといいですよね(わたしは言えませんが・・・)。

2010年1月15日 (金)

著作権法入門

 どんよりと、曇り。

 あすからの大学入試センター試験の準備・下見のため、きょうから入構規制です。授業も休講です。

 ということで、島並良・上野達弘・横山久芳『著作権法入門』(有斐閣、2009年)を読みました。

 著作権法の研究者ではないのですが、仕事柄、著作権法のことをよく聞かれるので、ときおり基本書にも目を通しています。

 先日も同僚先生に大学の教室(とくに大講義室)で新聞の複製を配布するのは著作権法に触れないのか聞かれ、わずかな知識をフル稼働させて、なんとかお答えしました。その先生は納得されていたようですが、わたしの理解が正しいのか、わたしにはわかりません。

 憲法を専攻するわたしからすると、下位法には妥当な答えが一つだけあるように思えてなりません。憲法ならAともいえる、Bともいえる・・・とかいえば好さそうですが、なんだか他の法のことを尋ねられると、難しいものですね。

 【追伸】昨日(14日)第142回芥川賞・直木賞の発表がありました。直木賞には、白石一文さんの「ほかならぬ人へ」と、佐々木譲さんの「廃墟に乞う」が選ばれました。芥川賞は第121回(1999年)以来の該当作なしでした。

2010年1月13日 (水)

雪の五高。

Cimg2591 熊本市内にも雪が降りました。ここに来て3回目の冬ですが、はじめての出来事です。3、4年に一度は積雪すると聞いていたので、その年がついに来た、ということでしょうか。

 五高にも雪が積もりました。元気な若者が雪だるまを作っています。やはり珍しいのか、記念撮影をする人びともいました。

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 漱石先生にも雪が積もっています。こういうときに笠でもかけてあげると、いいことがあるのでしょうか。

2010年1月11日 (月)

戸籍上の性/生物学的な性。

 曇っています。成人になられたみなさま、おめでとうございます。大学では学部の1、2年生あたりでしょうか。わたしは、はや、2度目の成人式というところです。にもかかわらず(?)、本日は、あす締め切りのお仕事が2つあるため、出勤です。

 はなしは変わるのですが、昨日の朝日新聞1面に「性別変更者の子『非嫡出』」との見出しのもと、つぎの内容の記事がありました。

 性同一性障害をもつ人は、2004年の特例法により、戸籍上の性を変更できるようになっています。この法律に基づき性別を変更した夫と妻が、非配偶者間人工授精(AID)で子をもうけた場合、戸籍上は嫡出子として届け出ることができない、との見解が法務省から出されたようです。

 このAIDという方法は、不妊治療の一環として用いられていて、特例法による性別変更者でない法律婚から生まれた子は嫡出子として届出られているのに、同法による性別変更者の場合には、法律婚であり、かつ、遺伝的な父子関係がないことは前者と同じであるにもかかわらず、非嫡出子となってしまうとのこと。

 このように区別される理由について、朝日新聞が法務省に尋ねたところ、「特例法は生物学的な性まで変更するものではなく、生物学的な親子関係の形成まで想定していない」、「遺伝的な父子関係がないのは明らか」と回答したそうです。

 でも、そもそも上述特例法は、戸籍に記載される性について、それは生物学的な性ではなく戸籍上の(法律上の)性である、との見解のもとにある法律ではいでしょうか。だからこそ生物学的な性によれば婚姻できないカップルの婚姻が、戸籍上の(法律上の)男女であるとの理由で法律婚ができるようになったのであり、そうならば、その法律婚から生まれた子は民法上(法律上)「嫡出子」とすべきではないでしょうか。

 特例法の時点で、戸籍上の性は「生物学的な性」ではなく「法律上の性」であることを容認し、また、不妊治療としてのAIDから生まれた子にも「遺伝的な父子関係がないのは明らか」なのだから、上記の法務省の回答は、論理的に一貫した思考法によるものではないように思うのですが。

 誌上で解説されている先生は「過去に女だったという、戸籍に記載された事実をもとに嫡出子と認めないのは道理が通らない」といいます。たしかに、特定法の効果は性別の記載の変更を認め法律婚を可能にするところまでには及ぶが、その法律婚から生まれた子の嫡出認定には及ばないというのは、特例法を前提とすると、「道理が通らない」ように思います。

 みなさんは、どのように考えますか。

2010年1月 9日 (土)

古今亭志ん生・弐

 晴れました。

 新年になり勤務再開から1週間。なんだか毎日、肩で息をしながら生活しているような感じです。この時期は大学人にとって、一番忙しいときなのでしょうか。

 昨年のいまごろ、落語を聴き始めようと、小学館の「落語 昭和の名人 決定版」CDつきマガジン26巻を定期購読しはじめたのですが、結局、いままでに8枚しか聴けていません。すでに配本は終わっているので、今年こそは、全巻の完聴を目指したいところ。

 そこで、今日はすこし肩の力を抜くつもりで、古今亭志ん生さんを聴きました。

 収録されていたのは「黄金餅」、「千早ふる」、「二階ぞめき」の3題です。音源は、いずれも志ん生さん69~71歳の円熟期のものです。

 「黄金餅」は、吝嗇家のお坊さんが財産を飲み込んだまま亡くなったのを知った長屋の住人が、そのお坊さんの死体を火葬して飲み込んだお金をいただこうと、長屋の仲間とともに、江戸の街を横断する話しです。

 「千早ふる」は、『百人一首』の在原業平の歌「ちはらぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」を知ったかぶりで解釈する隠居のお話しです。

 「二階ぞめき」は、吉原を“冷やかして”歩くこと(「ぞめき」とは冷やかして歩くことの意味のようです)が好きな若旦那のため、番頭が大工の棟梁に頼んでお店の二階に吉原そっくりな遊郭をつくるというお話しです。

 明治23(1890)年生まれの志ん生さんは、昭和48(1973)年まで生きていたのですが、昭和43年の78歳のときに高座を引退されています。わたしが生まれる前に引退されているので、また小さい頃は笑点しか見ていなかったので、志ん生さんの映像つき落語を見た(聴いた)ことがありません。CDを聴く限りではなかなか面白い語り口なので、是非、映像を見てみたいと思います。

2010年1月 6日 (水)

嘘の効用 上

 熊本にも♪「粉~雪~」。

 年末年始の帰省中にもう1冊、読みかけていた本を読了しました。末弘厳太郎の『嘘の効用 上』(冨山房百科文庫、1988年)です。ある先生が学部1年生ゼミの課題にしているのを知り、帰省の鞄に忍ばせていました。

嘘の効用〈上〉 (冨山房百科文庫)

 原典は大正年代のものもあり、若干、読みにくさもあるのですが、会話体で書かれているところなどは、読みやすかったと思います。またその会話もウィットに富んでいて、楽しめます。

 印象に残ったところを引用すると、まず学者の役目について、つぎのようにいいます。

 「学者の役目は、裁判所や立法者と協力して、一方においては、現在の法律はかくかくのものであるということを一般国民に示してその拠るところを知らしむるにある。であるから、できるならば、所謂学説の数を減らすことをひたすら心掛けてこそ、立派な学者である。・・・いたずらに小智恵にとらわれて末節にのみ走り、積極説、消極説に次いで折衷説、更に第四説、第五説を生み出すごときに至っては、全く法律家のまさに執るべき態度を踏み違えたものと言わなければなりませぬ」(9頁)。

 うぅ~、痛いことを言われてしまいました。講義中に通説批判ばかりしているわたしにとっては・・・。

 でも教師の意をくむつぎのような痛快な記述もあります。

 「試みに、今の学生を見よ。小学一、二年生の溌剌たる自己表現性は、年を経るに従って漸次に消え失せる。先生の質問にむかって『先生!先生!』と声高に先きを争うて答をなさんとするあの活き活きした子供の意気は、最早中学生においてこれを発見することはできぬ。いわんや大学生においてをやである。彼らは一般に先生の質問に対して自ら進んで答えようとはしない。『おれは知っている、しかし答えようとは思わない、それはあまりに子供らしい、誰か答えればよい、そうして間違えればよい、そうしたら思う存分笑ってやろう』。学生の多数は、通常の場合、かくのごとき顔つきをして先生の質問に対するのである。『教える』ということは『習う』ということと相対してのみ意味を持つ。果してしかりとすれば、かくのごとき学生にむかって完全なる教育を施し得ないのは、もとより当然。今の世に教鞭をとる人々、たれかこの嘆なき者があろうか?」(161頁)。

 ゼミをやっても発言は少ないですよね~。わたしの聞き方、教え方にも反省すべき点が多々あることを重々承知しながらも、もうちょっと、もうちょっと、と思うのですが・・・。

 ただ大学人として、つぎのことは肝に銘じて、今後の糧としようと思います。

 「『大切なことの一つは、学生が何かを尋ねたとき、先生自らの知らぬことは潔く知らぬと明答すること。他の一つは学生が誤りたる答、愚かなる答を与えたとき、決して笑ってはならぬ、他の学生にむかって笑うべき機会を与えてさえもならぬということである』。学生は習うのである。先生の質問にむかって常に必ずしも正しき答を与えないのは当然である。彼らが間違えたとき、なぜそれがおかしいのか?先生はよろしく百方苦心して種々の方面より質問を重ねた上、終に学生自らをして正しき答をなさしむべきである」(162頁)。

 そうなんですよね~。分かってはいるのですが、これが難しいんですよね~。

 最後にこの本は「近代社会が特に法学的の訓練を受けた人間を大量的に必要とする」理由、すんわち“法学部の存在意義”という注目すべきことについて、要約するとつぎのようにいいます。

 ①近代社会における官庁や企業といった組織では、「すべてがあらかじめ定められた行為規範によって秩序正しく行動することが要求される」(351頁)。その組織内部での行為規範というのは、法律的でさえある。

 ②資本主義的経営は、合理的資本計算によってのみ、成り立つ。行政・司法といった国家機能も、あらかじめ定められている規範によって予見可能下においてのみ、遂行可能である。「法治主義的の司法や行政に信頼してのみ近代資本主義的の経営は可能」となる(同頁)。

 ③「団体と団体の関係、人と人との関係も、すべてあらかじめ定められた法規範によって『結果を予見し得るように』規律されていることが必要」。「かかる法的保障あるによってのみ、故人の行動の自由とそれを基礎とした民主的社会秩序とが成り立ち得る」(同頁)。

 ④このような法的秩序は「特に法学的の訓練を受けた専門家がその運用に当たることが必要」(352頁)。なぜならが「いかに精密な法規範体系を用意しても、それの自動的作用のみでは法秩序の円滑な運用を期することはできない」。「法には一面、機械のように正確な規整作用を行う」面があるかれども「同時に個々の場合の具体的事情に応じて具体的に妥当な処理が行われなければ、全体として円滑に動かない面を持っている」(同頁)。

 そして結論として「だから、裁判所はもとよりその他の官庁や企業団体等にも、必ずかかる具体的処理を担当する専門家が必要であ」る。

 法学部で教育を受けた「専門家」によってのみ、社会の「法の機能は円滑に動く」(同頁)。末弘先生によれば、これが全国各地に法学部がある理由であり、そのような「専門家」(これは法曹三者という意味ではなく、法学部で教育を受けた「法的思考力をもつ者」という意味でしょう)を育てるのが、その法学部の役目である、ということでしょうか。

 法学部に来たからといって、LSに進学する人は、少なくとも勤務校では多数派ではありません。では、法学部の役割は・・・。このような疑問をもっていたわたしに、末弘先生の『嘘の効用』は、思考の手引きを与えてくれる本でした。

2010年1月 5日 (火)

対論 昭和天皇

 どんより曇り、寒い一日です。

 帰省の途上で、原武史さんと保阪正康さんの『対論 昭和天皇』(文春新書、2004年)を読みました。

 わたしから見て世代の離れたジャーナリストの保阪さんと、比較的年齢の近い大学教員・原さんによる対論で、天皇制、昭和天皇に関する面白い視点が提供されています。

 たとえば、天皇の胸中を知るために「御製」(ぎょせい。天皇が詠んだ和歌)を分析するという視点。これは保阪さんの視点です。昭和天皇が詠んだ和歌は1万首を下らないはずだが、公表されているのは900首程度とのこと。時勢の影響を考えて公表されたり、されなかったりと、意図的なものがはるはずだと言うのです。

 また「時間支配」という視点。たとえば即位○年の祝賀式のとき、その式に参列していた人だけでなく、同時刻に全国民が一斉に万歳をする。植民地でも行う。また海軍記念日などのときに、全国民一斉に黙祷する。指定された時刻を間違えないよう、徹底した広報をする。このような「時間支配」には国民精神を総動員することの象徴としての意義、また植民地においては日本型の支配を徹底して行うという意義があるようです。

 また天皇支配・天皇制と、天皇は国家機関のひとつであるという天皇機関説の、昭和から平成にかけての思想的変遷も興味深かったと思います。「制度的には、明治天皇が敷いたレールの上を進むしかなかった昭和天皇も、摂政時代に親閲式や地方視察を通して〈見えない天皇〉から〈見える天皇〉へと変わることで、一種の能動的な君主になっていった面がある。地方視察ができなくなり、〈時間支配〉が大々的に導入される日中戦争以降も、宮城前広場では〈視覚的支配〉がなおも続けられる。天皇は機関ではないということを、まさに天皇機関説が否定されたあとになって証明していくというんですからね」(原、205~206)。

 これは天皇支配に天皇の身体そのものが重要な役割を演じていたことを示しています。まさに天皇の〈視覚的支配〉です。ところが、平成以降のいくつかの儀式では、天皇の姿がまったく見えないのに、人びとが万歳をし、「君が代」を歌うという光景がみられるといいます。「天皇陛下御即位祝賀式」(平成2年)や在位十年の「国民祝典」(平成11年)、内親王の誕生を祝う「国民の集い」(平成13年)が皇居前広場で行われるのですが、

 「そのとき天皇と皇后はいずれも二重橋に現れるわけだけれども、三回とも時間帯が夜のため実体がまったく見えない。直接見えない天皇や皇后に向かって、みんなが万歳したり『君が代』を歌うという光景が出てきたわけですが、いうならば天皇の身体はなくてもいいということ。そこが、昭和天皇とは全然違うんです。(原文改行)見えないのに人々が万歳をするという、非常に奇妙な光景が平成になって現れたというのは、皇室の存在自体が希薄になってきていることを示す反面、天皇の身体性が失われて『機関』になるという意味では、天皇制はかつてないほど安定した段階に入ったことを暗示しているように思ったものです」(原、237~238)。

 天皇支配に必要とされていた〈天皇の視覚的支配〉は失われたけど、天皇という存在が国家機関のひとつのような意味あいをもつようになった今日(したがってその身体性、〈視覚的支配〉は失われたけど)、かえって天皇制は安定した段階に入ったという評価。なかなか含蓄のある視点を提供していると思いました。

 ところで、学生さん。昭和天皇を知っていますか。大学生の多くが平成生まれになった今日、改めて昭和という時代の再検証が必要ではないでしょうか。

2010年1月 4日 (月)

賀正。

Cimg2568_3  晴れています。みなさま、新年、明けましておめでとうございます。本年も変わらぬお引き立てを、よろしくお願いいたします。

 年の初めに善光寺に行きました。毎年の変わらぬ人出です。熊本も寒いのですが、熊本の寒さが甘いことを身に沁みて思い出しました。

 寒いついでに、もうひとつ寒さが滲み出る画像を。

Cimg2585

 帰りの車中から移した景色です。長野は31日から1日にかけてと、2日から3日にかけて、雪が降りました。大雪、大雪と感じていましたが、子どもの頃のことを思い出したら、正月に雪が降るのは当たり前でした。むしろ少ないくらい。

 寝正月も終わり、また今日から日常の生活です。

 【追記】駅から自宅まで、プリウス・タクシーに乗りました。まだモニター段階で、熊本でも4台しかないそうです。ハイブリッド・カーはリッター17、8㎞ぐらい走るそうで、LPだと7㎞ぐらいなので、ガソリンとLPの価格差を考えても、燃費がよくなるそうです。したがって台数を多く抱えるタクシー会社は、今後、ハイブリットか低燃費車の導入を考えるはずとのこと。ただ、プリウスはトランクの部分がガラスのため、トランク機能が十分に果たせないこと(トランクを開けたまま紐でくくって荷物を運ぶことができない)、排気量の関係で若干狭いことなどの欠点があるようです。

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