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2014年12月

2014年12月30日 (火)

マンガと著作権

 sun

 あいからわず年末感ありません。が、本年最後のブログでしょう。

 米沢嘉博さん監修の『マンガと著作権』(青林工藝舎、2001年)を読みましたbook

 本書は、2000年の2月と11月に、コミケット準備会が主催した「マンガと著作権に関するシンポジウム」の様子を収録したものです。

 こういったテーマを考えるときには、マンガ家さんや出版社といった権利者側サイドと同人誌作家さんや読者といった利用者側サイドという視点があると思いますが、本書は、後者の立場でいろいろ語られている点に特徴があります。

 いま、パロディについて考えているわたしにとっては、大変、興味深い本でした。とくに、「マンガという大衆表現、複合的表現におけるオリジナル性の分析は、評論の側からもきちんと行われていない」「ある意味、マンガのパロディと著作権の問題をつきつめていうことは、マンガの構造を明らかにしていくことかもしれません」(10頁)という冒頭の問題提起からはじまるシンポは、さぞ、実り多いものだったと思われます。

 また「自分の意見を文章や作品として公表するっていうことは、自分のものであるけれども半分は公共物になるということ」(54頁)という編集家の竹熊健太郎さんの発言も首肯できます。

 さらに、ペットボトル飲料の例で、一度出された商品(公表された表現)の使用法は、ユーザー=読者に委ねられている(一応の権利があるはず)という93頁の米沢さんの発言も興味深いものでした。つまり、購入したペットボトル飲料は、購入者がそのまま飲んでもいいし、凍らせてアイスとして使ってもいいし、人を殴ってもいい(笑)と。上手いこと、言うなぁ~、と思いました。

 いろいろ読んでいくと、結構な大物マンガ家さんも、意外と危ないことをしているようで・・・。著作権に関する権利意識、また、どこまでが許される行為でどこからがアウトなのかって、近年ころいろいろ言われてきていますが、最近のことですものね。

 ということで、本年最後のブログも終了です。本年もご愛顧いただきありがとうございました。皆様、よいお年をお迎えください。

2014年12月28日 (日)

闘うための哲学書(4)・完

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 年末感ないけど、帰省の日が近づいているとこ見ると、年末なのだろう。論文書きを少し休んで読書記録を。

 ついに、小川仁志×萱野稔人『闘うための哲学書』(講談社現代新書、2014年)も最終回まできました。

 18冊目。ロールズ『正義論』ロールズは、本書で功利主義に代わる正義を構想しました。それは公正を分配という観点からとらえた「公正としての正義」論です。基本的自由の保障、機会の均等、そのあと、自由競争を修正する格差是正が正当化されるという「正義の二原理」で、リベラリズムの法思想を提示しました。また、分配の手続を「正」、実体を「善」と表現し、分配の手続(正)を実体(善)に優先させるというところにも特徴があります。

 なんだか結構前ですが、わたくし、ロールズ研究していたんですよね~(遠い目)。一応、隠れていますが、研究業績もあるんですよね~(遠い目)。なんだか、あの頃が懐かしいですね~(遠い目)。

 19冊目。ウォルツァー『正しい戦争と不正な戦争』戦争を道徳的に限定するとり組みです。戦争を「正しい」、「正しくない」という基準で論じようとしています。そこでは「戦争への正義(jus ad bellum)」と「戦争における正義(jus in bello)」という二つの規範が各々別々に正当化されなければならないとされています。

 コミュニタリアンであるウォルツァーは、政治の土台として、そのコミュニティがつくり上げてきた共通の生の価値を重視しています。これを破壊しようとする外敵に対する自衛戦争は「正しい戦争」であるとして正当化されています。

 20冊目。福澤諭吉『学問のすすめ』福澤は、学問する意義を「一身独立して一国独立す」と説きました。「天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなり」。冒頭の有名な一節(天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず)は平等を説いたものではなく、勤勉の意義を説いたものということも、最近ではお馴染みか。「賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるに由って出来るなり」といいます。

 ところで、citizen に「市民」の訳語をあてたのは福澤諭吉が最初とのことです。

 21冊目。西田幾多郎『善の研究』西田は海外で最も有名な日本の哲学者で、京都学派の総帥です。無限(infinity)のことを「無」と論じる西田哲学には、わが国オリジナルの無限感がみられるとされています。

 22冊目。和辻哲郎『風土』これは、思想、倫理は風土の影響をうけることを主張したものです。本書はヘーゲルの歴史哲学が念頭に、その克服を試みた書といえると思います。ヘーゲルは、近代ヨーロッパこそ歴史の終着点で、他の地域はその前段階であるとしていたので。和辻は、それぞれの地域はそれぞれの風土のもとに独自の文明を発展させてきたのである、と言いたかったのです。

 なんだか、こういう哲学解説本に接するたびに、じっくり読書出来ていないなぁ~、と感じます。本を読み、研究論文を書くことを仕事にしているはずなので、読書する機会は多そうなのに・・・。

2014年12月27日 (土)

来年のモットー。

 sun

Dsc_2058 まだ、本年のお仕事、ちっっっとも納まってはいないのですが、とりあえず、研究室の掃除しました。といっても、物だして → 床ふいて → 物いれて、だけですが。

 本当は窓ふいたり、隅っこのホコリを「マツイ棒」(笑)でふいたりしたいとは思うのですが。一日のうち、一番長い時間を過ごす場所なので(最近、そうでもないか)。床ふきだけで、気力、体力の限界でした。

 いま「第9」が流れています。年末感を出そうとしています。長野育ちのわたしとしては、九州は年末感ないですね。なんだかんだいって暖かいので。

 ところで、年末~ということで、来年のモットーなど考えてみました。わたし、こう見えても、モットー好きです(笑)。たとえば、わたしの仕事のモットーは、

 「さからわず、いつもにこにこ、したがわず

 これ、研究室のホワイト・ボードに赴任時から書いています(少し、擦れつつある)。

 さらに、教育のモットーは、

 「資産と見識と向上心のある中産階級を育てる

 これ、大学教育の目標だと思うので。

 という感じで、来年のモットーは・・・と思っていたら、あるTVでダチョウ倶楽部さんの一言にハッとしました。ダチョウさんは来年のモットーを聞かれ、いつものポーズで、こう言いました。

 「現状維持

 
 おお、なんと素晴らしい!「現状維持」、これ、結構、大変ですよね。今年と同じだけでは、維持できないように思います。ただ、今年は今年でいっぱいいっぱいだったと思うので、これ以上というのも、わたしにとっては現実的ではありません。ということで、「現状維持」。おお、なんと素晴らしい!

 ダチョウさんにならって、わたしも来年のモットーは「現状維持」でいこうと思います。

 と、もう健やかに新年を迎えそうですが、まだまだ、年、越せません。原稿、雑務、なんとか目処をたてないと・・・

2014年12月26日 (金)

忘年会@新茶屋。

 sun の予報。

 年末年始の準備として、きのうは、まず年賀状書きをしました。小学校の頃は「プリントゴッコ」を愛用していましたが、最近は、本屋さんにあるCD付きの年賀状本で。ただ、わたしは僭越ながら自分の字、意外と好きなので、宛名まで手書きしています。

 で、年賀状の準備を終えて、県庁のお仕事に。災害対策事業が本格化する来年は、随分忙しくなる恐れがある、との脅しを受けたあと、恒例の忘年会へ。

Dsc_2048 会場は、新町にある“新茶屋”さん。このお仕事で有り難いのは、自分では敷居が高くて行けないであろうこんなお店に連れて行ってもらえることです(自腹ですが・・・)。

 このお仕事、本年は会長が交代したので、少しずつ「新体制」の様相が感じられます。なんと言っても、お酒。いままでは、ビールのあとはひたすら日本酒bottleでしたが、昨日は焼酎が登場。つぎあたりは、若気の至りでワインwineとか頼んでみようかと思います。

 それと、少し下ネタが(あっ、これは前からか・・・)。

 それにしても、皆さん、本業ではそれなりの地位の方ばかりなので、わたしなど、本当は末席で小さくなっていなければいけないはずですが、大らかに許していただいております(と思いたい)。

 新年は1月休会のあと2月定例会。1月が休会なので2月(それも、結構、後半だったと思う)に新年会をするとのこと。

 ということで、わたしにとっては、本年〆の忘年会でした。

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2014年12月23日 (火)

闘うための哲学書(3)

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 年賀状の準備を進めつつ、小川仁志×萱野稔人『闘うための哲学書』(講談社現代新書、2014年)の続きでブログ更新です。

 12月5日(金)のブログと12月10日(水)のブログに続いて第3弾です。

 11冊目。ウェーバー『職業としての学問』これは、職業として学問している大学教員、研究者が取るべき心構えを説いた本です。大学教員に知的廉直、講壇禁欲を求めています。教員が学生に説くべきなのは知の伝達であって、いかに行為すべきかという政治的プロパガンダではない、と論じられています。

 12冊目。サルトル『存在と無』サルトルは「実存主義」の提唱者として知られています。サルトルの実存主義は、人間の運命は変えられる(実際には変わらないが)信じて周りの環境、社会に関わりながら生きていくべきだという思想です。「アンガージュマン(engagement)」すべきであるというのです。本書は、1943年、サルトルが高校で哲学を教えていた時代に出版されていることも示唆的です。

 13冊目。レヴィナス『全体性と無限』これは、存在論の系譜の中で「他者」とは誰かを説いたものです。人間存在にとって他者はどこまで大事な存在なのかを論じています。デカルト以来の自我中心の西洋哲学をひっくり返し、私という存在は他者に大きく依存していることを説きました。レヴィナスは、一種の計算可能な連関のもとであらわれてくる世界を「全体性」、この次元を超えて開かれてくる世界のあり方を「無限」と呼んでいます。

 14冊目。ハイデッガー『技術への問い』ハイデッガーは存在論の開拓者として知られています。ただ、ナチスに肯定的だったところが批判されてもいます。とり上げられているこの本は、人間は自分でテクノロジーを開発し、使いこなしていると思っているかもしれないが、実際はテクノロジーの全体連関の中でテクノロジーを稼働させる一要素として「用立てられている」にすぎない、こういうことを論じたものです。テクノロジーの発展による人間存在の被拘束性を説いているのです。

 15冊目。フーコー『監獄の誕生』命令制裁型という古い権力像に対して、規律訓練型という新しい権力像を提起した本です。これをベンサムが考案した「パノプティコン(一望監視装置)」でフーコーは説明しています。常に監視されているかもしれない → 権力・規律の内面化という現象を論じたのです。

 16冊目。レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』レヴィ=ストロースは、本書で、構造主義(これ自体はソシュール提唱)を物事の現象に囚われるのではなく、現象の全体構造・本質を探ろうとする思考形式へと発展させました。本書には、なぜ首長だけ一夫多妻制なのか、という問いについて、それはその重い任務を慰めるためである、とあります。これは、西洋文明の驕りに対する批判として展開されているのです。一夫多妻制を「野蛮」とするのではなく、その制度が社会で担う機能を分析せよ、というのです。

 17冊目。アーレント『イエルサレムのアイヒマン』アーレンとは、この本で、絶対的な悪などない、あるのは平凡な人間が無思想ゆえに持ちうる陳腐な悪である、と説きます。悪の構造転換を描こうとしたのです。悪魔的な人間ではない凡庸な人間による大量虐殺。誰でも悪になり得るのです。

 こう読書しているとやるべきことを見失う感じがします。現実逃避したい時期だので・・・

2014年12月21日 (日)

先生を何と呼ぶか。

 cloud

Dsc_2029 きのうは院生の頃からお世話になっている研究会に出席するために「毛馬本駅」から広島に出張しましたbullettrain

 広島について、まずやることは、昼食。ということで、広島出張のときにはいつもよる広大・東千田キャンパス近くの鷹野橋商店街入り口にあるボラボラさんで、パスタ・フレンチソースのミックスをいただきました。

Dsc_2032 さて、きのうの研究会は第253回目とのこと。あと1、2年で定年される先生が院生の頃からということで、かれこれ40年ぐらいは続いていることになります。わたしも院生の頃、ここで鍛えられました。ホーム感ただよう研究会です。

 ところで、話は少し変わるのですが、この業界、メンバー同士でどのように呼び合っているのか、ちょっと感じたことがあります。

 わたし、あまり同僚先生を「○○先生」と呼ぶの、好きではありません。なぜかというと、同僚同士を「先生」と呼び合う商売を思い浮かべると、学校の先生、政治家、医者、弁護士、用心棒さんと・・・、みな社会に一家言ある職業ばかり。なんだかなぁ~、って感じませんか。お互いに「先生」、「先生」と呼び合うなんて・・・。

 それでも、自分が学生だった頃、すでに先生だった人に対しては、やっぱり「先生」なわけで、師匠とか研究会の先生なんかは、やっぱり「先生」でしょう。

 では、同僚は、というと、基本は「○○さん」でしょうか(影では呼び捨・・・しー)。でも10も20も離れた先生を「さん」づけというのは、なんだか不遜な感じもします(が、もう、いまさらでしょう)。同年代は「さん」でいいと思うのですが、ある大学では「君」で呼び合うのを耳にしました。

 とまぁ、こういう近い人は「先生」なり「さん」なり敬称をつけるのですが、この業界、お付き合いのない先生に対しては、それがどんなに大物先生であっても呼び捨てが多い、と思います。先日も、ゼミで心の中では尊敬しているA先生のことを「A」と呼び捨てしていたら、ゼミ生から「A先生でしょ」とたしなめられました。いや、あれは愛情表現なわけで・・・

 そういえば、とくに院生の論文とか読んでいると、「○○教授は×××と言われている」とかあるんですよね。なんだか落ち着かなくないでしょうか。そもそも、○○先生が教授かどうか調べなければならない(ときに○○博士なんてのもある。これ、博士号を取得していることを調べたということですね。○○博士、△△教授とか書かれているので)というのも大変では。「肩書きは執筆時のもの」とかするのでしょうか。その場合でも外国人の場合は呼び捨てだったりするんですよねー。

 なんて、院生の頃から参加させてもらっている研究会に行ったので、ちょっと感じました。

Dsc_2035 まぁ、日帰りとはいえ、一応、出張ということで。家族にお土産でも、と広島駅のお店で探していたら、微妙~なネーミングのお菓子を見つけたので、購入しました。



2014年12月19日 (金)

今年のゼミを漢字1字で。

  cloud。あさは氷点下でした。

Dsc_2014 きのうの夕刻から夜、校舎内のリフレッシュ・ルームでゼミ生とチーズ・フォンデュ会をしました。きのうは3年生ゼミ生と4年生が2名で。先月末、早々に忘年会をしたので、きのうは、クリスマス会との位置づけでスタート。

 でも、わたしは、翌日(つまり今日)、人間ドックpostofficeということでフォンデュは控えめ、ノンアルコールでの参戦でした。普通なら「なら別の日にしましょう」と言いそうなものだが・・・(笑)。

 ところで、きのうは、このゼミを漢字1字で現せば・・・というお題を振られたのですが、閃きにかけました。とくに、あるゼミ生のことを「繚」と現すお見事な回答に飲まれました。

 ですが、いま思うと、このゼミを漢字1文字で表すとすると「」かなぁ、と思います。みんな仲いい風しそうですし、そこそこ勉強もしていて、わたしもでした。それにしても、なんか不思議です。あんなにバランスがとれたゼミになるとは。メンバー誰一人欠けていても、こんなゼミにならなかったような。そう、誰一人、欠けていてもダメなのです。全員が異彩を放つわりには、それでまとまっていたりして。

 ちなみに、4年生のゼミは「秀」というところでしょう。これは説明いりませんね。

Dsc_2022 そういえば、途中から、ゼミ長の誕生会birthdayになりました。ゼミ生全員からのメッセージつき折り紙がプレゼントなんて、ゼミ長に似合わずメルヘンな感じ。でも、それがまたピッタリはまった感もあって・・・。ほんと、不思議です。こんなゼミがあるなら、大学、いつまでも続いていてほしいと思うのでは・・・(そうはいかないのですが。それでは日本の損失ですから)。

 ということで、来年も、彼、彼女らによい年が来るといいなぁ、と思います。

 

2014年12月18日 (木)

選挙、からの、忘年会。

 cloud。雪の被害に遭われている方、お見舞い申し上げます。

 きのうは、わが社の時期学部長を決める選挙の日でした。この日をo(^-^)oワクワクしながらお待ちになった方もいるでしょうが、ふたを開けてみれば、「下馬評」通りか。なんだか刺激的ではありませんでした。まぁ、刺激はいらないか。

Dsc_0026 つづいて、昨晩は、法学・政治学・経済学系部局合同の忘年会bottlebottleがありました。わが社では、こうした会のときの席は、VIP以外は、くじ引きで決めます。きのうは「」でした。ちなみに、教授会の席も、4月の第1回のときに、くじでその年の席を決めます(これもVIPを除く)。

 不覚にも昨晩はスマフォを研究室に忘れたため、俊敏なツイートができませんでした。

 忘年会では、たまたま横になったVIPのお守り、ではなく、お話をさせていただきました。開始時から最後の挨拶を気にするVIPに「安価で請け負いますよ」と慰めつつ・・・

 VIPは「研究したい、研究したい」とおっしゃっていました。そうりゃようですよね、われわれは学者、研究者ですものね。「書いてナンボ」ですよね。VIPは奇しくもわたしと同じことをおっしゃいました。「学部長とか研究科長とかなんかやったって、学界じゃまったく関係ない」。

 わが社の来年度からの新しい体制が決まったという日に相応しい話題でした。

Dsc_0030 二次会は、結構よく行くこのお店へ。わが社の新体制二先生を囲んで(いたか?)。まぁ、結構、荒波ですよね~。末端のわたしですら、そのことを感じるくらいですから。

 でも、その反面(でもないが)、わたしはやっぱりあのVIPのお話を聞いて、いつまでも自由でいられるわけでもないと感じざるを得ませんでした。いまのうちにやるべきことをやり、なるべく、気配を消す算段をすべきであると・・・。

 そうそう、忘年会にはわが社の名誉教授もお越しになり、昨晩はお二人とお話できました。お一人はわたしの研究室の前利用者(もう飲み屋のおねえさん?からの電話はこなくなった)、もう一人は、院生の頃から論文を読ませてもらっていた先生でした。いま思えば、一時期でも「同僚」でいることができたとは、わたしも凄いですね~(笑)。って、全然、足下にも及びませんが。同先生も、やっぱり研究でしか評価はされない、と上のVIP先生に同意されていました。

 まだ年末感ありません。その原因は、年賀状を書き始めていないことと、なんと言っても、月曜日(もう過ぎた)締め切りの論文が、まだ形になっていないからだと思います。気持ちは焦燥感ありますが、でも、2、3日で仕上がるわけでもありません。いつまで待ってもらえるだろう~(ガクブル~~)。

 

2014年12月15日 (月)

vs. 学園大。

 寒いながらも、suncloud

 きのう、衆院選のさなかに、わが社と熊本学園大学の先生たちとで、野球baseballの定期戦を実施しました。この教員野球は、すでに50年以上の歴史があり、毎年、春と秋に2戦、実施しています。

 きのうの試合の状況とこの定期戦のちょっとした経過については、わたしのウェブ・ページをご覧ください。

 熊大(法)vs. 学園大

 きのうは、初回に先制したあと、すぐその裏に1点返されてしまいました。いつもはマウンドのないところで練習しているだけに、学園大の本格的な球場に対応するに少し手間取りました。老年先生に押し出しを与えてしまい、もったいない失点でした。

 ただ、ノーアウト満塁からの初回の失点は、その1点のみ。2回にうち取ったあたりで1失点したものの、その後は意外と危なげない投球だったと思います。

 結果的に、5回2失点で降板。その後、4年生の助っ人2人が1イニングずつ締めて、4対2で快勝しました。

 これでわたしが赴任してから13戦して、わが社の8勝4敗1分、勝率は6割6分6厘。わたしのわが社でのキャリアは、知る人ぞ知る「プロ野球選手」としてスタートしているだけに、その最低限の仕事はこなせている、というところでしょう。ここまでの実績は、来季の契約内容にも反映されることでしょう。

 ところで、上にもある通り、この教員野球はお互いで協力しつつ、ここまで50年以上、続いています。大学を取り巻く環境は実に厳しくなりつつあり、かく言うこの教員野球も、そのあおりを受けてなかなか開催の日取りを決めることが難しくなりつつあります。それでも、こうして、この秋(冬?)も野球ができた。有り難いことです。

 昨日の勝利で5連勝。でも、勝ち負けではなく、これまでに関わってきた両大学の多くの人に感謝した一日でした。

2014年12月11日 (木)

ゼミ飲み。

 cloud。雨あがったでしょうか。

 昨晩、4年生のゼミ生と「ゼミ飲み」しました。

Dsc_2005 会場は、上通りと新市街が交差する角にある、その名も「角マック」に集合後、ドンキ方面に歩き、とある路地をはいったところにある ISHIHARA(石原)さんでした。

 最近は3年生と遊ぶばかりで4年生とは久しぶりの「飲み」でした。

Dsc_2006 お料理は、寄せ鍋やご自慢であろうだし巻き卵を含めた全8品のコース。みんなよく食べていました。

 ところで、4年生のいま頃は、何だか複雑な心境ではないでしょうか。就職を決め卒業を目の前にしていたとしても、周りの友達がすべでそういうわけでもない。また、本人もあと3ヶ月と少しで新しい生活をはじめなければならない。それは、大学4年間が終わるのではない。思い返せば小学校に入学したあの日以来の「学校生活」(通常は16年か)が終わること。

 なんだか、すごい人生の転機にいますよね。そういう転機があったはずなのに、そのまま大学に居座ったわたしからすると、その心境はいかほどかと思います。なんて・・・、当の本人たちは、あまりピントは来ていない感じです。それでもいいのでしょう。その時は放っておいてもくるので。

 ところで、わたしは、現在の勤務校に赴任して、いまの4年生は6期目のゼミ生です。はじめて3年生のゼミを募集したのは平成20年。このときのゼミ生は1名でした(4年生が1名きて、彼は0期生という感じでしょうか)。以来、2期生(平成21年)が6名、3期生(平成22年)が12名、4期生(平成23年)が13名、5期生(平成24年)が18名、6期生(← 昨日の4年生が16名)、7期生(現在の3年生)が12名とゼミ生数は推移してきています。

 こうして振り返ってみると、いまの4年生は学業的な意味で優秀なゼミだと思います。それは、もう、びっくりするくらい。そして、いまの3年生はとても楽しいゼミだと思います。それは、自他共に認めるところではないでしょうか。わたしに、いまの4年生と3年生のゼミ以上のゼミが今後訪れることがあるとは思えないくらい学生に恵まれました。もうわたくし、思い残すことはありません。

 なんてFA移籍でもしそうですが、まだまだいます。年が明けると新しいゼミ生の募集がはじまります。いまの4年生や3年生に劣らないゼミになったらいいいなぁ、と期待しつつ・・・

 



2014年12月10日 (水)

闘うための哲学書(2)

 意外と外は暖かかったりする。でも、冬である。

 ちょっとした時間を使って、小川仁志×萱野稔人という新進気鋭の哲学者の対論『闘うための哲学書』(講談社現代新書、2014年)を読み進めています。

 先日(12月5日)のブログにつづいて・・・

 6冊目。ルソー『社会契約論』合議体や君主に統治を委ねるのではなく、人民による自己統治のための社会契約説を説いたもの。死刑を肯定するロジック、殺されないための社会契約 → そのルールに反した者は殺されなければならない。

 7冊目。スピノザ『国家論』人間は必然的にいろいろな情念に従属している。「人間の性情は、不幸な者を憐れみ、幸福な者をねたむようにできており、同情よりは復讐に傾くようになっている。さらに各人は、他の人々が彼の意向に従って生活し、彼の是認するものを是認し、彼の排斥するものを排斥することを欲求する」。

 ここから、萱野さんは、啓蒙や理性に期待するということは、人の内面に踏み込んでもいい範囲を広くとらえるということ。政府が取り締まっていいのは人間の行為までだとすると、啓蒙や理性に期待しない哲学の方がより思想や信仰の自由を守る足り場になりそうである、としています。

 8冊目。カント『永遠平和のために』本書は、1795年バーゼル条約をきっかけに執筆されました。国際平和の理想論です。すべての国家に広がった平和連合が確立しれば、すべての戦争が永遠に終結する、とカントは考えています。

 9冊目。ヘーゲル『法の哲学』結婚(婚姻)は、人間が生命を維持し、子孫を残すという再生産の場であると同時に、精神的な愛の結実化でもある。家族は、自由な人格が合意によって結びついているという意味で、市民社会の原型でもある。家族という法的共同体には、子どもを市民社会の成員として育てる役割が課されているとされています。

 10冊目。ミル『自由論』危害原理を説き、自由に関する議論の端緒になった書物です。他にミルにはベンサム流の「快楽功利主義」に抗して「質的功利主義」を唱えた『功利主義論』などもあります。

 個々のテキストは、どうしてもそれぞれの時代的制約の中で書かれています。そうした時代制約的なテキストをどこまでアクチュアルに読めるかは読み手にかかっている、とお二人は言います。現代からみて、テキストの問題点やある種の視点の欠落などを批判するのは簡単ですが、そうではなく、哲学テキストを現代の視点からいかにアクチュアルに読めるかを問うべきだと言うのです。

 それにしても、かつては、こうしたテキスト、それも、ときに原文を読んで暮らしていたこと、あったんですよね~(・・・遠い目・・・)。あのような日々は、もう戻ってこないのでしょうか。

 よく「大学の先生は放っておいても研究はする」と言われることがあります。つまり、授業はそこそこ、学務はしない、というのが大学教員像ということなのでしょう。

 ところが、これ、わたしの感覚とは全く異なります。学務なんて簡単(誰でもできる)、もちろん学務だけでは許されないので授業もする。でも、ここまでで許されるなら、大学教員なんて楽なものです。もっとも苦しいのは研究する(=論文を書く)ことだと思います。

 学務をソツなくこなす、授業がうまい、こういう先生はいっぱいいます。でも、これ、大学教員としての評価対象ではありません。もちろん、授業は上手い方がいいし、学生の面倒見もいい方がいいに決まっています(学務はどうでもいいでしょう)。でも、大学教員は、研究業績でしか評価されません。少なくとも、対外的には、そうです(学務がソツない、とか、授業が上手いなんて、学界は関心を持ちませんから)。

 わが社では、もうすぐ、学部長選挙があります。研究、勉強をするには、どうしても時間が必要なので、教員の講義負担、学務負担を減らし、研究時間を確保する政策を実現してくれる学部長が出現してくれることを、わたしは切に願っています。できれば、近々、サバティカルとかとらしてくれる人を・・・

2014年12月 6日 (土)

卒業生と在校生の交流。

 もう、冬ですね。風邪などひいていないでしょうか。

 昨晩、わが社を卒業して熊本県庁に入庁した元法学部生と現役法学部生との交流会を開催しました。昨日は、卒業後5年内の元法学部生が集まってくれました。

Dsc_1958 この企画の発端には、お世話になっている県庁職員さん(この方も熊法OB)の危機感がありました。どうやら熊本市が政令市になったことで、熊本市への採用を希望する熊法生が増えているのではないかというのです。

 そういえば、わたしのゼミ生にも、熊本県庁ではなく熊本市役所への採用を希望する学生がポツポツと出てきました。そういう傾向にあるのかもしれません。

 とはいっても、熊本県庁は熊大法学部生にとっては憧れの職場。過去、熊本県出身者だけでなく県外出身者も含めて、多くの学生を採用してもらっています。また、それが、熊大法学部のウリにもなってきました。

 で、それで、先のOBさんと「現役の学生と若手県庁職員とで職場のこと、生活のこと、その他もろもろをざっくばらんに話せるような場をもてないだろうか」というお話になって、それが昨日、実現したというところです。

 昨晩は、14名の熊大法OB・OGさんが集まってくれました。出先から駆けつけてくれた人、降ってわいた選挙準備に追われるなか参加してくれた人。入庁5年内ということで、どことなく見覚えのある「元学生」もいて・・・。有難いことでした。職員さんは、普段使っている職員証を首から下げてくれていて、話のネタづくりをしてくれていました。わたしのゼミ卒業生も4名参加してくれて、いろいろ近況を聞きました。

 学生は2、3年生あわせて12名の参加者を得ることができました。本当はもう少し希望者がいたのかもしれませんが、会場が30名弱の場所ということで、教員2名もいれて、都合28名の会になりました。

 はじめはギコチナサもありましたが、時間が進むにつれ会話の輪ができて、手前味噌ですが「よい交流会」だったと思います。学生の採用云々ではなく、同じ釜の飯(同じ生協のごはん)を食べた者同士の心の交流(笑)。

 まずは、1回、やってみました。学生と卒業生の交流会という企画でしたが、熊大法を卒業した若手県庁職員同士の交流会にもなったと思っています。こうした母校、熊大法を基点とした卒業生と在校生の交流、そして、卒業生同士の交流(在校生同士は毎日交流しているでしょうから)をまた実現できたら、と思います。

 

2014年12月 5日 (金)

闘うための哲学書(1)

 cloud。寒い、寒い。

 論文書かなければいけないのに、現実逃避~。小川仁志×萱野稔人『闘うための哲学書』(講談社現代新書、2014年)を読みはじめましたbook。お二人は、わたしとほぼ同年代ということもあり、かねてより注目してきた哲学者です。同年代の人がこうして活躍しているというのは、かなり刺激的ですね~。

 ところで、この本、お二人の気鋭の哲学者による対談形式の哲学本案内になっています。ということで、いままで読んだところまで、ご案内します。

 1冊目。プラトン『饗宴』。これは、エロス(性欲をもつことも、社会をよくしたいと思うこともエロス)という単純な原理で社会や人間のさまざまな現象を説明しようとしたものとのこと。

 2冊目。アリストテレス『ニコマコス倫理学』規範主義(カント)、功利主義(ベンサム)という近代倫理学の二大潮流のなかで、第三の倫理となる共同体論を提示。人間は政治的共同体のなかで「善く生きる」べきであり、何が「善」であるかは共同体ごとに異なると説いたとされています。

 3冊目。デカルト『方法序説』徹底的な懐疑によっても、あらゆるものを疑っているという自分の存在だけは疑えない。「われ思う、ゆえにわれあり」。ただ、その「私」の意識を特権化した物心二元論(心と身体は別のもの)はデカルトの思考を最後まで悩ませたといいます。

 4冊目。ホッブズ『リヴァイアサン』自然状態における「万人の万人に対する闘争」、私的制裁、復讐の禁止 → 暴力の独占、社会状態 → 権力機構としての近代国家の正当化 → 国家状態における政府の統治、という社会契約説を唱えた。

 ホッブズは、どんな場合でも(政府が圧政しても)、無政府状態よりは国家があるほうがマシ、と考えたといいます。それに対して、

 5冊目。 ロック『統治二論』私有財産を保護する近代国家の基礎づけ → この役目を果たしていない国家に対しては人民に抵抗権を認めているとされています。

 もっと読み進めたいところですが、いろいろやることもあるので、つづきはまたいつかcoldsweats01

2014年12月 1日 (月)

甦る上杉慎吉

 寒い~、雨~。

 先週末、原田武夫さんの『甦る上杉慎吉』(講談社、2014年)を読み終えました。

 明治期の日本は、近代国家として生まれ変わったばかり。そこで、往時の憲法学者は、国家や社会の「現実」を憲法という「規範」の上に位置づけるための法理論の構築を目指しました。

 その一人が美濃部達吉です。美濃部の学説は、公法実証主義を背景にもつもので、国家法人説に基づく天皇機関説でした。ただ、時の通説的見解であった彼の理論は、高等文官試験的な通説であり、官僚機構内におけるものとされています。

 その対極にいて、常に美濃部学説を批判しつづけたのが、上杉慎吉です。ともに東京帝国大学の憲法講座を担当していながら、上杉は、天皇主権説を美濃部の向こうを張って展開します。ただ、上杉説は、市井の天皇感覚にはマッチするものの、純理論的には美濃部説に及ばないものだったと思われます。

 著者は「むしろ舶来ではない、我が国自身の法の背景に一般大衆の確信を求め、それをベースとした『天皇』と『臣民』との関係性を突き詰めようとした上杉こそ、その次に向けたパースペクティヴを広げる可能性を見出していた」としています(111頁)。

 本書は、上のような二人の「好敵手」関係を、上杉の目線から説いたものです(美濃部は、当初は比較法制史、行政法担当。天皇機関説を手にしたあと、「憲法第二講座」教授。上杉は「憲法第一講座」担当とのこと)。また、上杉の学問が今日の政治状況、デモクラシー論にもたらす影響に言及しようとする点で、意欲作だと思います。著者はこう言います「日本人に必要なこと。それは『自分自身で問題を設定し、これに対して答えることである』」(158頁)。久しぶりに一気に読みました。

 また、当時から大学教授は安月給で待遇が悪いとされていたこと(33頁)、また、当時は「現代と大きく異なり」法律学の教官になったらすぐに自らの見解を概説書にする慣例があったこと(45頁)など、当時の法律学教官をとりまくエピソードもふんだんにあり、読んでいて飽きませんでした。

 異端とされても、後世名を残す人の学問には鋭いものがあります。美濃部、上杉なんで「高み」にとっても及びませんが、せめて、自分では納得できる学問人生を送りたいものだ、というのが本書の読後感です。

 

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