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2014年12月23日 (火)

闘うための哲学書(3)

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 年賀状の準備を進めつつ、小川仁志×萱野稔人『闘うための哲学書』(講談社現代新書、2014年)の続きでブログ更新です。

 12月5日(金)のブログと12月10日(水)のブログに続いて第3弾です。

 11冊目。ウェーバー『職業としての学問』これは、職業として学問している大学教員、研究者が取るべき心構えを説いた本です。大学教員に知的廉直、講壇禁欲を求めています。教員が学生に説くべきなのは知の伝達であって、いかに行為すべきかという政治的プロパガンダではない、と論じられています。

 12冊目。サルトル『存在と無』サルトルは「実存主義」の提唱者として知られています。サルトルの実存主義は、人間の運命は変えられる(実際には変わらないが)信じて周りの環境、社会に関わりながら生きていくべきだという思想です。「アンガージュマン(engagement)」すべきであるというのです。本書は、1943年、サルトルが高校で哲学を教えていた時代に出版されていることも示唆的です。

 13冊目。レヴィナス『全体性と無限』これは、存在論の系譜の中で「他者」とは誰かを説いたものです。人間存在にとって他者はどこまで大事な存在なのかを論じています。デカルト以来の自我中心の西洋哲学をひっくり返し、私という存在は他者に大きく依存していることを説きました。レヴィナスは、一種の計算可能な連関のもとであらわれてくる世界を「全体性」、この次元を超えて開かれてくる世界のあり方を「無限」と呼んでいます。

 14冊目。ハイデッガー『技術への問い』ハイデッガーは存在論の開拓者として知られています。ただ、ナチスに肯定的だったところが批判されてもいます。とり上げられているこの本は、人間は自分でテクノロジーを開発し、使いこなしていると思っているかもしれないが、実際はテクノロジーの全体連関の中でテクノロジーを稼働させる一要素として「用立てられている」にすぎない、こういうことを論じたものです。テクノロジーの発展による人間存在の被拘束性を説いているのです。

 15冊目。フーコー『監獄の誕生』命令制裁型という古い権力像に対して、規律訓練型という新しい権力像を提起した本です。これをベンサムが考案した「パノプティコン(一望監視装置)」でフーコーは説明しています。常に監視されているかもしれない → 権力・規律の内面化という現象を論じたのです。

 16冊目。レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』レヴィ=ストロースは、本書で、構造主義(これ自体はソシュール提唱)を物事の現象に囚われるのではなく、現象の全体構造・本質を探ろうとする思考形式へと発展させました。本書には、なぜ首長だけ一夫多妻制なのか、という問いについて、それはその重い任務を慰めるためである、とあります。これは、西洋文明の驕りに対する批判として展開されているのです。一夫多妻制を「野蛮」とするのではなく、その制度が社会で担う機能を分析せよ、というのです。

 17冊目。アーレント『イエルサレムのアイヒマン』アーレンとは、この本で、絶対的な悪などない、あるのは平凡な人間が無思想ゆえに持ちうる陳腐な悪である、と説きます。悪の構造転換を描こうとしたのです。悪魔的な人間ではない凡庸な人間による大量虐殺。誰でも悪になり得るのです。

 こう読書しているとやるべきことを見失う感じがします。現実逃避したい時期だので・・・

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