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2015年2月17日 (火)

宇波彰『引用の想像力』(冬樹社)

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 定期試験の発表も終わりつつあるのか、大学はいたって静か。

 先日、宇波彰さんの『引用の想像力』(冬樹社、1979年)を読みました。

 ときは「複製技術」の発達時代にはいって久しい現代。「コピー文化」が隆盛しています。この時代に、純粋な意味での「生産」が成立するのか。むしろ「コピー文化」が優位である今日、コピー、模倣を含めた、いわゆる「引用」が文化産出手段として重要な意義をもつことを、本書は指摘していきます。

 こうした状況においては、純粋な意味での「生産」を概念する意義はうすく、生産されたものはすぐに引用というかたちで「再生産」されます。「プレテクスト」に対する除去、付加、歪曲、誇張などの操作(これが「引用」です)を経て成立した「テクスト」は、すぐに「プレテクスト」となることで、「テクスト」が再生産されていく。こうした引用、複製という行為自体が、複製の時代、コピー文化の時代においては「創造的である」というのです。

 上のように引用は、プレテクストに対する除去、付加、歪曲、誇張などの操作を伴ってなされる表現手法ですが、本書のなかには、これに関するおもしろい考察がありました。

 それは、柳田国男の『遠野物語』の評価についてです。『遠野物語』に収められている物語、記事、伝承などは、名もない民衆による報告や想像を佐々木喜善が引用して口述したものを柳田が言語化、文字化したものです。この過程における柳田の引用の操作のあり方をどう見るかで見解が分かれる、というのです。

 というのも、新潮文庫版の『遠野物語』の解説のなかで、解説者・山本健吉は、この書物を「事実の記録」として紹介しているとのことです。これに対して、岩波文庫版の解説者・桑原武夫は、これを柳田による「文学作品」として解説しているとのこと。桑原は、柳田はプレテクストに除去、訂正、改変を付して、そして新しい作品としたものが『遠野物語』であるとするのに対して、山本は、『遠野物語』を客観性をもつ民俗学的著作と評している、というのです。

 ところで、著作権法32条1項は、つぎのように定めています。

 「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」。

 そして、この引用該当性についての判例はつぎのように言っています。

 「〔著作物の〕引用にあたるというためには、〔①〕引用を含む著作物の表現形式上、引用して利用する側の著作物と、引用されて利用される側の著作物とを明瞭に区別して認識することができ、かつ、右〔②〕両著作物の間に前者が主、後者が従の関係があると認められる場合でなければならない」(〔 〕は引用者)。

 ①を明瞭区分性、②を付従性(主従性、従属性)といいますが、法上の引用概念は、上の文学・芸術上の引用概念と乖離してすることにくわえて、引用著作物はまるで言語の著作物に限られるかのようなものになっています。

 法学的な引用概念と文学・芸術における引用概念はこうも違うのです。近年は、著作権法学界でも、最判の引用概念を修正し、いわゆる「パロディ」を著作権法上認める試みがあると聞きます。わたしも、文化・芸術論と法学を架橋するような論文を書きたいなぁ~、と思いました。

 

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