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カテゴリー「読書」の246件の記事

2017年4月16日 (日)

村木嵐『やまと錦』(光文社、2017年)。

 sun。昨年より、温暖。昨年は外にいたので、よくわかる。

 明治憲法制定に奮闘した井上毅(作中名・多久馬)を題材にした、村木嵐『やまと錦』(光文社、2017年)を読みました。村木嵐さんは京大法学部卒。参考文献の欄では、大石眞先生の『日本憲法史』(有斐閣)から貴重な示唆を得たとあります。

 いまちょうど憲法の統治機構に関する講義で「日本憲法史」と題して明治憲法制定の意義を説いているところです。あすの講義では日本国憲法の制定過程について講義します。

 その明治憲法制定の意義ですが、講義では、① 外的要因として、憲法をもつ近代国家になって、江戸幕末に締結した不平等条約を改正すること、② 内的要因として、民権運動を抑制して天皇制国家を確立することである、と説いたところです。その様子が本書は生き生きと描かれています。

 また、社会秩序を維持するために、いかに天皇が利用されていたのかについても、作中のいたることをで垣間見ることができます。たとえば、西郷・板垣の征韓論を抑えるところ(45頁あたり)や欧米のキリスト教のかわりとされているところなど。

 ところで、本書は「法」というもの、について主人公に次のように語らせています。「法とは無から作るものではなく、歴史のなかで少しずつ発達してきたもの・・・。法を定めるとは、すでに私たちの中に蓄積されてきているものを書き起こす作業だ」(134頁)と。これ、わたしが昨年の講義(基本権領域を講じた「憲法Ⅰ」)ではじめの頃にお話ししたことですよね。その端緒・発祥の一点を見れば「人為性」があるのだろうが、しかし、法とはその人為性が薄れてきて普遍性・一般性を得たものである。こうした非人為性をもつ規範による統治が「法の支配」であると。

 さらに、この本を読んでいると、形式的意味の憲法(ここでは明治憲法)が制定されてはじめて「国家」というものが成立するのではなく、すでに実質的意味の憲法に基づく官僚組織体があって、その中の担当者が憲法を制定していったことがわかると思います。実質的意味の憲法に基づく官僚組織体こそ、われわれが頭の中で「国家」と思っているものの正体であるとも講義ではくり返しています。

 その明治憲法も、臣民の権利を保護することで君主の権力を抑制するものなのですが、同時に、もっとも恐れなければならいのは民権派の暴力である(186頁あたり)であったことも。憲法は急進的な動きを抑制して統治を安定させるためのものなのです(このことも、くり返し講義で説きました)

 そうはいっても、憲法は政府のためにあるのではありません。作中で“憲法の文言に幅をもたせているのは、未来に向かって国家権力を抑えるために開かれているのであり、為政者に好きに使わせるためではない”と主人公(189頁)および大津事件の際の大審院長であった児島惟謙(247頁)の口から語られています。物語の終盤では「立憲制」の意義が説かれています。

 (立憲君主制の一端について、つぎのような記述があります。「憲法の五十五条には、各省の大臣が天皇を補佐して、責任はその大臣が取ると書いてある。また天皇は議会の協賛がなければ法を定めることができず、詔勅も勅令も、大臣の著名があってはじめて効力を得るとなっている。憲法はそこまでして天皇の個人的な恣意を排除しているのだ」〔220頁〕と)。

 明治維新から流血もなく四半世紀で立憲君主制へ。この統治体制の変革と確立が平穏に行われたことこそ、まさに「革命的」なできごとだったと思います。あと2週間もすれば「憲法ウィーク」(ゴールデンウィークか)。「憲法」というものの基本を考えることができる良書だと思いました。

2017年3月28日 (火)

岡本真一郎『悪意の心理学』(中公新書)。

 温暖、sun

 きのうまでの東京出張の移動時間をつかって、岡本真一郎さんの『悪意の心理学』(中公新書、2016年)を読み終えました。

 いつも軽口ばかりたたいているので、舌禍wwwwにならぬよう、大人なのですこし気をつけようを思いまして。

 たとえば、セクハラの場面での教訓なのですが、「上司が思っている以上に、部下は上司の権力行使を恐れている可能性がある」(P156)という記述がありました。これ、よくわかりますし、わたしが一番、気をつけようと思っていることです。この世界に上司・部下関係はありませんが、それでも、評価は常に、上位者が下位者に対して行うという構造があります。なにかを頼むとき、常に、このことを気をつけて、なにかを依頼するときには、常に断っても大丈夫な環境でお願いしなければならない、と感じています。

 また、いわゆる伝言の効果、二次的情報、三次的情報では、聞いた人、伝えていく人の間に、なぜ情報の齟齬が生じるのかについて、わかりやすく説かれています(P215以下)。とにかく、ほかの人から聞いたことをニュアンスそのままに伝えることは難しいこと。ということで「〇〇さんが言っていたんだけど・・・」というのだけは、無責任かつ、〇〇さんにも迷惑をかけてしまう可能性が大きいので、くれぐれも注意したいと思います。誰かほかの人が言っていた話しても、その通りだと思ったら、自分の見解として表明しておいた方が、間違っていたときに責任もとれるので。

 さらに、自分に対する陰口は誰でも気になるもの。しかし、それを気にしていたら、きりがない。自分にとってのよくない評価は他の人の方がよくしっているとわりきって、自分についてのちょっとした批判なら、それを漏れ聞いても、寛容に考え、それを参考にして自分の行動を少し変えてみることが得策である旨、説かれています(P278)。その通りだと思います。

 わたくし、こう見えても小心者で、常に、周囲からどう見られているのか、他人の評価を気にしながら生きています。周りの人の評価を変えることは難しいのでしょうが、自分が言葉を発するときには、受け手の立場、意見等を尊重し、「コニュ障」を徐々に脱して行けたらなぁ、と思います。

2016年12月29日 (木)

今野晴貴『生活保護』(ちくま新書)。

 cloud。年末も押し迫ってきましたね。きょうは研究室の掃除(大掃除ではなく、いつもの掃除)をしました。

 で、ここ数日の年末行事(忘年会、年賀状書き、掃除など)の合間に、今野晴貴さんの『生活保護 - 知らせざる恐怖の現場』(ちくま新書、2013年)を読みました。

 副題にある「恐怖の現場」の意味は、生活保護という行政サービスが担当行政官(含・ソーシャルワーカー)次第で恣意的に運用されている現状を示してのものだと思います。ここにあるのはごく僅かの例外(と思いたい)だとは思いますが、それでも「まさか」という事例が紹介されています。

 生活保護には数年前に有名芸能人の親族が受給していると報道されて以来、さまざまな「バッシング」があります。そうした中で、本書は「世間の『雰囲気』で、行政の法的手続きが変更になる」(P55)ことが恐ろしいことであることを随所で主張しています。生活保護行政は、生活に困窮している人の生命に関わることだからです。本書の成功は、生活保護政策の思想的・イデオロギー的是非を論じるのではなく、生活保護行政において法治主義の徹底がはかられていない点に徹底的に迫った点にあると思います。

 また、本書は後半で賃金・社会保障における「ナショナルミニマム」の構築を提唱しています。この制度にわたしは詳しくありませんが、失業、医療、子育てなどに個別に給付するのではなく、ベーシックインカムを国民全員に保障する制度は、自由経済体制に適合的であるといわれているだけに、検討に値するものなのだと思われます。

 共産主義や社会主義ではなく自由経済体制であるからこそ必要であると考えられる公的扶助、生活保護制度。著者は、最後に「これからの日本に本当に必要なのは、国家の制度としての生活保護が、どのような意義を持ち、どれだけその機能を果たしているのか、という冷静な政策的視点」(P250)として、本書を締めくくっています。

2016年12月18日 (日)

橘玲『言ってはいけない』(新潮新書)。

 sun

 先日の東京出張の途上、読みかけていた橘玲さんの『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書、2016年)を読了しました。

 現代の進化論、遺伝学、脳科学等の最新知見に基づき「不都合」、「口外できない」けれども「真実」とされることが勇気をもって書かれています。ただ、それぞれのテーマにはきちんと参考文献が掲載されていて、しかも、そのほとんどは邦語のものなので、だれでも検証できるはずということでしょう。参考文献の方もいずれは読んでみたいと思います。

 (この手の話の真偽の検証はきっと興味深いこと。のめり込みそうなのでほどほどにしようと思います)。

 Img_1086_2この本のオビには「警告」とあり「この本の内容を気安く口外しないで下さい」とあるので、ここではわたしがとくに注目したところだけ・・・

 まず、最近は大学の講義でも教員にプレゼン力が求められることがあります。ということで、パワポとか使って・・・なんてことを、わたしもときにすることがあります。そして、同じ内容の講義なら、たしかにプレゼン力の高い講義の方が学生による学期末の授業評価でも高い評価を得られたそうです(P128)。

 ところが、では、そのプレゼン力が学生の成果につながっているかというと・・・。必ずしもそうではない、とのこと。講義内容が同じなら、プレゼン力がよかろうが悪かろうが、学生の期末試験の成績には影響がなかったとのこと。つまり、「元になるアイデアが無価値ならなんの意味もない」(P129)と。

 こう言ってしまえば当たり前のように感じますが、1点、本書には講義の善し悪しをはかるヒントも書かれていました。それは、講義を映像で見るのではなく(本書ではYouTubeで見るのではなく、と表記されていますが)、「紙に書き起こしたものを読んだ方がいい」ということです。なるほどなぁ~と思いました。

 講義内容の薄さはときにプレゼン力でごまかされますが(これも、教員の技のうちでしょうが)、講義の善し悪しはたしかにプレゼン力(見た目)ではなく、内容で評価されるべきですよね。(って、どっちも心許ないわたしとしては、まずは、内容を高めるか、ごまかす技を身につけよ、ということでしょうね)。

 もうひとつ、どの親でも自分の子どものことには一生懸命になるはず。そして、さまざまな能力を身につけてくれたらいいなぁ~、とか感じながら子育てしているはず。

 ただ、子どもの成長、発達に影響する要因を、①遺伝的要因、②親の教育(これを「共有環境」)、③非共有環境(学校とか友だちとの関係など)とわけたとすると、認知能力(学業成績、一般的知能など)、性格(神経症傾向、外向性、調和性、誠実性など)、才能(音程、外国語、数学、スポーツなど)、社会的態度(自尊感情など)、性役割(男性性、女性性)、発達障害、物質依存(アル中、喫煙など)のどの要因をみても、①遺伝と③非共有環境でほぼ決まる、という研究結果があるとのことです。

 ということで、著者は「わたしはどのようにして『わたし』になるか」という問いに対して、それは親の教育ではなく、「遺伝と非共有環境」であるとしています。(ということは、家庭より、学校や友だち関係が重要ということなのですね)。

 子どもの人格形成に親の影響は皆無であるとするのは、なんだか身もふたもないことですが、でも著者は、それでも「子育ての経験があるひとならば、(この結果には)どこかで納得しているのではないだろうか。なぜなら、子どもは親の思いどおりにはぜんぜん育たないのだから」(P213)としています。子育て真っ最中(といっても、わたしはほとんど育てていませんが・・・)の身としては、残念なようですが、一面で、まぁ、思い通りにいかなくてもしょうがない、ということなのでしょうね。諦めもつく、というものでしょうか。

 というところで、当たり障りのないところだけ、紹介してみました。

 著者は「あとがき」で本書の企画についてつぎのようにいっています。

 話は2015年のフランスの諷刺雑誌「シャルリー・エブド」へのイスラム過激派襲撃からはじまります。この事件に、日本の「リベラル」な新聞社は「テロは言語道断だが下品な風刺画を載せた方も問題だ」として「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」としたといます(P248)。著者は、この言説に噛みついています。いわく「誰も不快にしない表現の自由なら北朝鮮にだってあるだろう。憲法に表現の自由が定められているのは、ひとが嫌がる言論を弾圧しようとした過去の反省によるものだ」と。

 そしてさいごに「不愉快なものにこそ語る価値がある・・・。きれいごとをいうひとは、いくらでもいるのだから」との言葉で本書を締めくくっています。

 本書の内容には批判も各方面であるのでしょう。でも、その批判は批判として論拠を示して文書で表現する、そういう国でなければならない、と思いました。

2016年12月 4日 (日)

最近のできごと。

 熊本はrainでございます。

 ここ1週間の出来事は2つ。

 1つは、仲正昌樹さんの『いまこそロールズに学べ』(春秋社、2013年)を読了しました。

 学会とか研究会で、よく「大学院の頃はロールズをご研究され・・・」と紹介していただくのですが、ここ数年、まったくロールズ本を読んでいませんでした。そのことは、わたしのなかではすこしキズとしてあったのですが、ようやく久しぶりにロールズ本を読みました。

 ロールズ本は、そのあともずっ~~っと買い続けていたのですが、本棚に眠っていた仲正昌樹さんの『いまこそロールズに学べ』を読みました。

 標題から時事的問題が提示され、ロールズならこう言う・・・なんて感じの本かと思っていたのですが、なんのなんの、本格的なロールズ研究書でした。

 そのなかには、ロールズの私有財産論について、及び、ロールズが無知のヴェールによって排除しようとした偶然性と集合的資産論の関係について、拙著『ロールズの憲法哲学』(有信堂、2001年)を参照とあり、有り難く感じました。ああ、ロールズ研究も大切にしていきなければ、とあらためて思いました。

 本書の最後まで読むと、「いまこそロールズに学べ」の意味がわかります。それは、わが国には本来的な意味での「リベラル」(自由主義経済の枠内で社会・経済的な弱者に優しい政治を展開する現実的な左派)の思考法が根付いたことがない。「保守」に対抗するため「リベラル」とは何かを「いまこそロールズに学べ」。こう著者は言いたかったのです。

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Img_1012 はなしはかわって、29日には、刑法の澁谷先生のゼミとわがゼミ(3年生どうし)で野球の交流戦をしました。

 いまは偶然にも大所帯となっているこの2ゼミは、なんとなくライバル関係にあるのか(担当教員のイケメンさはたしかにライバル関係だが)、白熱した試合展開でした。

 というのも、相手のピッチャーはすごかった。そして、その球baseballをうけられるキャッチャーがいることも凄い!ふつう、捕れないでしょ。まぁ、それでも、わがチームが勝ってしまうところが、なお、すごい。

 わがゼミの勝因はなにかなぁ・・・、わたしの好投かなぁ・・・(それは、そうなのだが)。なんとなく、女子力、もとい、女子(の)力が勝因か。うちの得点にほぼほぼ絡んでいたのは女子だったので。そういえば、随分と女子が強く、男子が大人しいゼミになったような・・・ 

 あとは、お仕事で人吉にいったり熊本地裁にいったりしました。また、人間ドックにいって身体のメンテをしたりもしました。証拠写真cameraです。

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2016年9月17日 (土)

國分功一郎『哲子の部屋Ⅱ』(河出書房新社、2015)。

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 國分功一郎さん監修の『哲子の部屋Ⅱ』(河出書房新社、2015年)を読みました。

 ヤーコブ・フォン・ユクスキュルという生物学者が提唱した「環世界」という概念をつかって、「人はなぜ学ばないといけないの?」という副題に回答を与えています。

 ユクスキュルは、臭いと温度しか感じないマダニにとっての森と、語感をフル活用できる人間にとっての森は、同じものではないのでは? との問いを立て、「環世界」という概念を提唱したとされています。それぞれは同じ森にいるのですが、実は「環世界」は違うのだというのです。

 このことは、同じ人間の中にも起こります。人それぞれ違う状態、異なる環境から見ると、同じものでも違うものとして捉える。同じ人間であっても、見ている(感じている)「環世界」は違うのである、というのです。

 で、では、なぜ「学ぶ」ことが重要なのかというと、人間は学びつづけることによって「環世界」をつくりかえて新しい刺激をうけとれるようになるからである、と本書は回答しています。そうすれば、物事を一面的ではなく複数の視点から捉えられるようになるということでしょう。

 なるほど~、と思いました。自分と違う立場にある人の視点、考えにはなかなか立てない。それは「環世界」が違うからである。柔軟な思考をする人は、複数の「環世界」を持てている(「環世界」にある)から、ということでしょうか。

 ところで『哲子の部屋Ⅰ』でもこの『Ⅱ』でも、あるDVDが参照されています。それは、ハロルド・スミス監督の異色のラブコメディ映画「恋はデジャ・ブ」という作品です。いずれ観てみたいと思いました。

2016年7月31日 (日)

國分功一郎監修『哲子の部屋Ⅰ 哲学って、考えるって何?』(河出書房新社、2015年)

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 ちょっと軽い哲学本が読みたくなったので、本棚にあった、國分功一郎さん監修の『哲子の部屋Ⅰ 哲学って、考えるって何?』(河出書房新社、2015年)を読みました。

 「哲学」とは何かって、なんだか難しいそうですが、本書は90分くらいで読めて、目から鱗がとれる内容でした。

 まず、哲学の歴史は、プラトンやアリストテレスの活躍した古代からなのですが(それはわたしも知っていた)、近代の新しい哲学は、なんといってもルネ・デカルトから。

 このデカルトは「疑う」というところから哲学をはじめています。このデカルトですが、実は中高の数学でおなじみだった「座標」の考案者とのこと。それは、方程式を図を用いて描くという発明でした。このように、往時の哲学者は数学者でもあったのです。

 また、哲学者でもあり心理学者でもあったフロイトは、心は「無意識」に支配されていることを提唱しました。「無」意識というものが「有」るとしたのです。

 このように哲学とは「新しい概念」(「概念」とはモノの見方、考え方のことです)を作り出すことであるとしたのはジル・ドゥルーズでした。方程式を座標にしたり、無意識という概念を生み出したり。

 おお、なんと明晰!

 で、では、人はどんなときに考えるか。ここで本書で登場するのは「習慣」というキー・ワードです。

 本書は「習慣」を日々のくり返しから「違い」を無視したものとして説明します。たとえば、毎日通っている道にあった建物がある日、取り壊されている。このとき、前にあった建物がなんであったか、思い出せないことって、よくありませんか。この道を通ることが「習慣」となっているので、実は、目には入っているけど見ていないということが起こっている。

 こういう習慣は、実は、悪いものではない。こうした習慣は生活を安定させるものである。でも、あるとき「不測の事態」が起こる。そのとき、人はビックリして対処法を考える。

 ということで、われわれは、モノを考えているではなく、実は「考えさせられている」のであるとも本書はいいます。

 習慣は思考の母である。習慣があるからこそ例外的な不測の事態のときに思考ができる。そう、毎日不測の事態ばかりだったら、われわれは思考できないのです。

 おお、平凡な日々というのは、いかに哲学に向いているか。逆にいうと、いつも不測の事態に対処しなければならないとしたら、思考できない。それは、つねに「肝試し」しているようなものだから。

 さて、いまの大学はどうでしょう。思考に向いている環境にあるのでしょうか。なんて、何を読んでも嘆き節につながってしまいます。

2016年7月18日 (月)

坂井豊貴『多数決を疑う』(岩波新書、2015年)

 sun。梅雨明け!

 この3連休は10月の学会の報告者による「打合会」ということで上京しました。

 この機を利用して、坂井豊貴さんの『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』(岩波新書、2015年)を読みました。

 本書は、多数決という多を一に結びつける意思集約方式を関数として数学的に表そうとした書物です。多数決に対する「違和感」(必ずしも多数派に有利なわけではない)を科学的に分析しています。

 というのも、多数決は、選択肢が3以上あるときには「票割れ」現象により、意思集約ルールとしては不完全なものとなります。このことを捉えて、本書は「民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である」といいます(6頁)。

 そこで、いかなるときにも「ペア敗者」を選ばないというボルダルールや同ルールを批判して定式化されたコンドルセ=ヤングの最きゅう法の分析へと進んでいきます。

 本書は「結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない」(49頁)と冷静です。

 本書の中盤では「多数決のもとでは、正しい判断をする者が半数をわずかにでも越しさえすれば、結果が正しくなる」という大数の法則の応用(統計のデータが増えるにつれて、そのデータの平均は真の平均に近づく)が紹介されています。このコンドルセの理論によれば、多数派の判断はルソーの「一般意思」に適う確率が非常に高いことになります。本書は、ルソーが提示した少数派が多数決の結果に従うべきことの正当性の一旦を示しています。

 さらに、終盤では、オストロゴルスキーのパラドックスによると、代表制と直接制(人民主権)とのあいだには想像を絶する隔たりがあると論を展開し、その流れのなかでアローの一般不可能性定理(二項独立性と満場一致性を満たす集約ルールは、独裁制のみである)にもふれられています。

 また、実務的な分析では、憲法改正条項の理解や國分功一郎さんもコミットされている「都道328号線問題」にも非常に興味深い検討が加えられています。

 数学的知識に乏しいわたしにもサクッと読めた社会的選択理論入門でした。

2016年4月24日 (日)

『民法学を語る』。

 cloudsprinkle。まだまだ、余震、続いてます。

 すこし時間ができたので、大村敦志先生と小粥太郎先生が「往復書簡」をいう形式で「民法学とは何か、何をしようとしているのか」を語った『民法学を語る』(有斐閣、2015年)を読みました。ずっと気になっていながら、まだ読んでいなかった本でした。

 このてのものは、定年後の大家が後世に「遺言」を残すようなものが多いなかで、大村先生はわたしより11歳うえ、小粥先生は5歳うえという、現役真っ只中世代。この2人が「民法学の存在意義を言語化」しようとしたもの。実に意義深い本です。

 内容は、お互いのこれまでの著書、論文をとりあげつつ、就職までの論文としてはどのようなものがよいのか、大学にポストを得たあとはどのような想いで仕事を続けてきたのか、そして、これからはどのような方向性の下で研究・教育していこうというのか、これらについて清々しく語られています。

 わたし、学生の頃は、民法、あまり好きではありませんでした。民法の講義では、甲さん vs. 乙さんの争いとか出てきてどうすればよいか、とか学んでいたのですが、つい、わたしは「そんなの2人で話せばいいんじゃ?」とか思っていた口でした(話しあいがうまくいかなかったから訴訟になっているんですよね)。

 でも、この本は違います。民法は市民社会の基本法であることが語られています。わたしがやっている憲法が「統治者の基本法」なら、民法は「市民の基本法」なんですね。そして、民法は近代社会の基本法よろしく、基礎的な法概念についても語り得る(語らねばならぬ)もの。この本、学生時代にであっていたら、民法を専攻していたかもしれません(ああ、道を誤らなくてよかった! わたしのような頭脳では、民法では太刀打ちできませんので)。

 また、ここで語られていることは、憲法学においても当てはまるものだとも感じました。若い頃の「基礎研究」の重要さ、そのあと「応用研究」をしつつも、それらを融合させて「基本研究」として自らの研究を体系化していく。その個々の研究が学界全体として「学説」を構成するというイメージでしょうか。

 このお二人は、概ね、20年から25年のキャリアの先生。わたしは15年を超えた感じのキャリア。わたしはまだまだ中途半端な憲法学者、法学者ですが、そんなわたしにとっても法学、憲法学をする「希望」を語ってくれる本でした。

 

2015年10月23日 (金)

へんな商標?

 sun。秋晴れ続き。

 数日前、友利昴さんの『変な商標』(発明協会、2010年)を読みました。

 いま「商標と表現の自由」の問題を考えていて、その息抜きというか、洋モノ読んでる「箸休め」として読んだのですが、抱腹絶倒でした。

 たとえば、草刈機の製造販売を手掛ける筑水キャニコム社の名商標「草刈機まさお」。これは、指定商品である「草刈機」に二枚目俳優の草刈正雄さんの名前をかけた商標として有名ですが、その後継機の商標は「草刈機たみよ」(草刈民代」でも「草刈機まゆう」(草刈正雄さんの実娘、草刈麻有)でもなく「草刈機みさき」・・・誰?とか、

 実はこの後継機の前に別の商標登録がされていて、それは「1000masao」(・・・千昌夫)であり、草刈りに関係なく「まさお」の方を生かしてしまっている(笑)とか、

 という感じで。ただ、著者が商標登録した各企業の意気込みとかブランド戦略を非常にリスペクトして本書を物していることが随所にあらわれていて、茶化している感じで有りなから、実にすがすがしいタッチの商標紹介になっています。

 また「何天堂」というゲームの中でしか使われない架空のアイテム名を商標登録した例(当然ながらゲーム内の模倣品に現実世界の商標権は行使できない)とか紹介されていて、へへへへーーー、とも思いました。

 この続編『へんな商標2』というのもあるようなので、早速、注文しようと思います。ただ、面白い本ばかり読んでいてると論文、いっこうに進まなくなるので、要注意ですね。

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