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カテゴリー「読書」の97件の記事

2009年11月 9日 (月)

統治機構論入門

 曇り/晴れ、という感じでしょうか。19時を過ぎて、蒸し暑くなっています。週末から温暖な(というより暑い)日が続いています。なんだか、これから春→夏になるのでは、というような気候です。

 週末に、法学セミナー2009年11月号の特集「憲法 統治機構論入門」を、駆け足で読みました。

 ここでは6人の論者(いずれも必ずや憲法学界の次世代を担うであろう論者ばかりです)が、「近代立憲主義」、「民主主義」、「法の支配」、「国民主権の原理」、「権力分立論」、「議院内閣制」というテーマを、コンパクトに解説しています。

 おそらく学部生が中心であろう読者を意識してのものから、統治論の古典的名著を引用しつつまさに原理論を述べたものまで、記述内容の難易度はそれぞれであるようにも感じますが、それはそれで読んでいる者を飽きさせない内容になっています。

 わたしは本年度は勤務校で「統治機構論」を2年生対象に講義したので、その受講生には統治機構論の復習がてら、是非、一読してもらいたいと思います。

2009年10月28日 (水)

少年事件の実名報道は許されないのか

 清々しい朝です。そんな朝のひとときを利用して、松井茂記先生の『少年事件の実名報道は許されないのか:少年法と表現の自由』(日本評論社、2000年)を読みました。

 少年法61条は「家庭裁判所の審判に付された少年又は少年のとき犯した罪により公訴を提起された者については、氏名、年齢、職業、住居、容ぼう等によりその者が当該事件の本人であることを推知することができるような記事又は写真を新聞紙その他の出版物に掲載してはならない」と規定しています。

 本書は、この条文の「推知報道禁止」を絶対的禁止の意味で理解してはならないとの立場から書かれています。松井先生が書かれていることもあり、この見解が憲法学では有力であるといえると思います。

 また少年法61条は少年の更生を目的とした「刑事政策的なもの」で、実名報道されない「権利」を保障したものではない、という点も、憲法学的には妥当なものだと思います。

 さらにこの条文には旧少年法にはあった罰則規定がありません。この点をとらえて、本書は、「立法者は、罰則規定をはずすことによって、これをマス・メディアの自主規制に委ねた」と理解しています。仮に絶対的禁止を求めるなら立法者は罰則規定を残すはずですから、それをあえて削除したところに、立法者の絶対的禁止を否定する意図を読み取ることも可能だと思います。

 とはいっても、そのような少年事件でも、実名報道、推知報道が許されるわけではありません。著者は、大阪府堺市で起きた通り魔殺人事件について、「新潮45」が容疑者とされた当時19歳の少年の氏名と写真を公表した事件に関する大阪高裁判決に依拠して「少年の実名報道が正当化されるのか、公衆が正当な関心を抱くであろう重大な事件に限られる」(198頁)とすることも忘れていません。さすがは松井先生、穏当で妥当な思考だと思います。

 ところで少年事件の、あるいは広く刑事事件における容疑者の氏名等公表について、それは「いわれるような民主政原理との深い結びつきのような高い価値は見出しがたい」、従って、実名報道は不要であるとの意見があります。この点について本書はつぎのように言います。少し長くなりますが引用します。

 「たしかに、個々の事件の容疑者の氏名に、民主政原理とのそれほどの結びつきはないのではないかと想われたとしても仕方ない。しかし、公共の利害に関わるような事件が起きたとき、それを知り、それに対してどう対処すべきかを論じることも、公共的な討論に含まれる。事件の解決にあたって、警察の行動は適切であったか、裁判所の措置は適切であったのか、そして少年事件の取扱い全体が適切かどうか、これらの事項も公共的な討論事項である。そして、これらの討論を真に意味あるものとするためには、十分な事実が報道されなければならない。……少年の氏名そのものに価値があるかどうかではなく、氏名等を明らかにすることなく意味ある討論が可能かどうかを問題にすべきである。……少年に面識のある者に少年を特定することができないような報道しか許されないのであれば、現実に少年事件の報道が不可能である以上、少年の氏名等の報道も認めざるをえないのである」(150-151頁)。

 (ここでも使われ、また一般によく「公共の利害」といわれていることは、英語でいうと public interest です。これ「公衆の関心事」と訳した方が、もとの意味に近いのではないでしょうか。蛇足ながら……)。

 表現の自由、報道の自由、そして「知る権利」に重要な意味を見出し、そのためにときに少年の実名報道が許される場合もあるとする本書を、2000年刊と少し前のものであるのに、なぜいまのタイミングで読もうと思ったのか。

 その理由のひとつは、現在ブリティッシュ・コロンビア大学に勤務しておられる著者と公法学会のときに昼食をご一緒できそのときに本書のことを思い出したことがあるのですが、なによりもいま話題の「○○君・・・」本を入手できたからです。「○○君・・・」の内容というよりも、こうして少年事件の容疑者の実名を掲げて書籍を出版すること、そのことの憲法学的視点からの正当性を考えてみたいと思ったのです。

2009年10月15日 (木)

法学部生は知っておきたい!昭和・平成の法律事件(1)

 秋晴れ!昨日は10月採用の新人先生の歓迎会でした。@KKR。

 ところで、法学教室349号(2009年10月号)では、「法学部生は知っておきたい!昭和・平成の法律事件(1)」という特集が組まれています。349号~351号まで3号に渡っての特集のようです。

 その「(1)」として349号には、

1.農地改革(行政法)

2.平野事件(行政法)

3.占領政策と会社法(商法)

4.警察予備隊事件(憲法)

5.東洋精糖事件(商法)

6.苫米地事件(憲法)

7.四大公害訴訟判決(民法)

8.家永教科書裁判(憲法)

9.恵庭事件(憲法)

10.個人タクシー事件(行政法)

 これらの事件がラインナップされています。いままであまり見られない興味深い特集だと思いました。単行本化されるかも。

2009年10月14日 (水)

著作権の窓から

 少し雲もありますが、まぁ、よい天気でしょう。

 週末の学会にいく道すがら、半田正夫『著作権の窓から』(法学書院、2009年)を読みました。

 本書は、長い間、わが国の著作権法学界をリードしてきた著作権法研究者によるエッセー集です。著作権に関する四方山事が軽快なタッチで描かれていながら、本格的に著作権の問題を考えてみようと思う際の“かゆいところ”にも手が届く内容になっていて、面白い本でした。

 とくに研究助手に採用された後、図書館の書庫でウルマーの本を見つけ出す件など、この業界にいる者として羨ましい発見だなぁ、と思いました。ただ、院生・助手(いまは助教という)時代とは違い、いまとなってはこのような“鳥肌の立つ”ような経験をする余裕など、望めないのかもしれません。

 ともあれ読みやすく書かれているので、著作権法を学んでいない学部生にも、ささっと読めるお薦め本です。

2009年10月 6日 (火)

運命の人(四)

 くもり、ときどき、小雨。

 週末の京都行きの道中で、山崎豊子『運命の人(四)』(文藝春秋社、2009年)を読みました。

 『運命の人』の最終巻であるこの巻は、外務省機密漏洩事件の被告人として有罪判決が確定した主人公が、その後の人生を沖縄で暮らすという設定のもとで書かれています。おそらくその多くがフィクションではないかと思われますが、太平洋戦争で国内で唯一の地上戦を経験した沖縄の戦争経験、軍用地として強制的に接収された土地をめぐる闘争、それから1995年に起こった米兵による「少女暴行事件」など、いまもなお続く「沖縄問題」を織り交ぜながら書かれています。沖縄国際大学に米軍のヘリが落下した事件まで、取り上げられています。

 本巻終盤には、主人公が入手した「沖縄返還に関する機密電文」が琉球大学の先生により、米国公文書館で発見される、というシーンが描かれています。この先生と面識があるわたしとしては、おぉ・・、と思いながら読みました。公文書を発見するに至るアメリカでの生活の様子まで描かれていて、この4巻の後半部分では、まるで琉大のこの先生が主人公のようです。

 『運命の人(四)』で作者・山崎さんが描きたかったことは、「機密電文漏洩事件」の単なる背景を超えて、沖縄の風土とそれに似つかわしくない米軍基地の存在、というようなことだったのかもしれませんね。

2009年9月25日 (金)

運命の人(二)・(三)

 きょうも残暑です。30℃オーバーです。

 帰省の車中で、山崎豊子『運命の人(一)~(四)』(文藝春秋社、2009年)を読み進めました。先日読んだのは『(二)』と『(三)』です。

 山崎豊子さんの『運命の人』は先日紹介したように、「外務省機密漏洩事件」を題材にしたフィクション+ノンフィクションです。

 本日の『(二)』は、沖縄返還にまつわる機密電文漏洩事件に関する参考人として主人公が出頭したのに、一転して逮捕状を執行され、国家公務員法違反の被疑者として強圧的な事情聴取をうける場面からはじまります。そして残された妻の様子が描かれた後、第一審の公判における冒頭陳述、証人尋問へと話しが展開されています。

 また『(三)』は、第一審の証人尋問の続きから、第一審の判決(主人公の新聞記者は無罪、外務省の女性事務官は有罪)で一度目の山場を迎え、検察側控訴による控訴審での逆転判決、最高裁での上告棄却(主人公の有罪確定)と、話しは流れていきます。その間に、主人公と妻との心の行き違い、新聞社を辞めざるを得なかった主人公のその後の様子(主人公は実家に帰り家業を継ぐのですが・・・)が描かれています。

 この『(二)』『(三)』の法廷での証人尋問の場面は、弁護側、検察側入り乱れての尋問の様子は臨場感あふれるタッチで描かれています。そのうちドラマ化とかされるのかなぁ、と思ったりしました。

 という感じなのですが、これから外部の審議会に出席しなければなりません。本日のブログはこれにて終了です。

2009年9月16日 (水)

運命の人(一)

 晴れ!30℃オーバーは必至!

 先日の帰省中に、山崎豊子『運命の人(一)~(四)』(文藝春秋社、2009年)のうち(一)を読みました。

 憲法を勉強した人なら「外務省秘密電文漏洩事件」としてお馴染みの事件を題材とした作品です。この事件は『判例百選』でも解説されていますので、裁判の概要はそちらを参照してください。

 「外務省秘密電文漏洩事件」の概要は、つぎのようです。

 1972年の沖縄返還の前に、米軍は基地として利用していた土地のうち、不要になった部分を、沖縄の住民に返還しています。ところが、基地利用のために取り上げるときは強制的に収用しておきながら、返還の際には、なんら原状回復することなく、つぶれ地やコンクリート舗装のまま、返還していました。このようななかで住民の激しい抗議にあい、米国は、1961年6月までに返還した土地については、その原状回復に資するために“見舞金”を支払っています。ところがそれ以降に返還された土地の原状回復資金は、支払われていないままでした。

 1972年の返還にあたり、米国がつくって沖縄に残していく資産(たとえば、琉球電力や水道など)や核の撤去費用、軍部隊移動費用などの名目で、日本は米国に多額のお金を支払います。ところがやはり衡平の原理からいっても、住民の土地の原状回復費用は米側に負担させるべきであり、住民運動、国内世論も、その論調にありました。ただ、米側は、資金がないことを理由に頑として、この要求を受け付けませんでした。このままでは、原状回復費用どころか沖縄返還自体が暗礁に乗り上げるかもしれないような状態だったとも。

 そこで米側は米国内法の規定をつかい「裏技」を提案します。その内容は本書を読んでください。いずれにしても、それは、不要になって返還した軍用地の原状回復費用を、日本側が肩代わりする、という内容だったのです。このやり取りを外務省は米国との交渉地から日本・外務省宛に「極秘」に電信します。この電信文を、毎日新聞の記者が、外務省の女性事務官と「ひそかに情を通じ」て入手したことが、国家公務員法違反(秘密の漏洩をそそのかした)として起訴されたものです。

 『運命の人(一)』では、この新聞記者の人となり、彼と外務事務官とが知り合いであった経緯、沖縄返還交渉と電文の内容、そして事情聴取(→のちの青天の霹靂のような逮捕状の執行)までが描かれています。もちろん、すべてが事実というわけではなく、ノン・フィクションに素材をとったフィクションですが、『大地の子』、『沈まぬ太陽』、そして『白い巨塔』と力強く話題作を提供している山崎豊子さんの筆の強さがここでも感じられます。

2009年9月15日 (火)

菊池伝説殺人事件

 曇っていたけど、晴れてきました。

 実家への帰省の車中にて、内田康夫『菊池伝説殺人事件』(徳間文庫、2009年)を読みました。

 キオスクをみたら「熊本-長野を結ぶ 浅見光彦の推理!」という帯が目に入り、ついつい買ってしまいました。わたしもこれからミステリーの旅とかいって(実際には、たんなる帰省ですが・・・)、一気に読みました。推理小説なので、内容を言ってしまうわけにはいかないので・・・、とごまかして。

 よくTVで「浅見光彦シリーズ」の2時間枠の番組を観ます。といっても、わたしは警察庁刑事局長の兄をもつという浅見光彦の素性がバレテ、所轄の警察官があたふたする、というお決まりの場面まで観て、だいたいNHK9時のニュースに変えます。どういう真理でしょうね。いつも、あの場面まではこの番組を観たいと思うのですが、それを観ると、もう満足します。みなさんには、こういう変な性癖、ありませんか?

 と本の紹介を全然しないブログですいません。

2009年9月10日 (木)

著作権保護期間

 きょうも快晴!この前あめが降ったのは、いつのことだったのでしょうか。

 本日は、田中辰雄・林紘一郎編『著作権保護期間:延長は文化を振興するか?』(勁草書房、2008)をようやく読みました。

 わたしのいまの関心からすると、真っ先に読まなければならないこの本。ちょくちょく「つまみ食い」はしていたのですが、一通り読むのは、きょうの段階になってしまいました。

 欧米では著作権期間が、原則として、著作者の死後70年となっています。とこがわが国では死後50年です。これを欧米並みに70年に引き延ばそうという議論が2006,2007年段階で盛んでした。いまは、ちょっと棚上げ状態でしょうか。

 ところでわが国の著作権法1条には、著作権法制定の目的(それは著作権設定の目的でもあると思います)について、つぎのように規定しています。「・・・著作者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする」。また、合衆国憲法には連邦議会に著作権法の制定権限を付与した規定があります。1条8節8項は、つぎのようにいいます。「著作者及び発明者に、その著作物及び発明に対する独占的な権利を一定期間保障することにより、学術及び有益な技芸の進歩を促進すること」(岩波文庫『新版 世界憲法集』の土井真一先生の訳です)。

 この規定から、著作権の設定は、文化・学術の発展・進歩のために(目的)、著作者に権利を付与した(手段)、という構造を持ちます。ということで、きょうの本は、著作権期間を延長するという「著作者の権利」の拡大(手段)で、文化・学術の発展・進歩が見られるのか、見られるとすればどの程度なのか、つまりそれは著作権法の目的に適うものなのか、ということを検討したものです。

 とくに本書はこの点を経済学的に(「法と経済学」)分析していることが注目されます。そして、著作権期間を延長しても文化を振興することにはならない、というのが本書の結論です。この直覚的に思いつくことを実証的・論理的に分析したところに、本書の意義があると思います。

 ともあれ気になっていた本を読みことができてよかったと思いました。

 【追伸】業界のみなさま、本日は、年に一度の運命の日ですね。

2009年9月 8日 (火)

アメリカのパイを買って帰ろう

 朝晩は涼しいので、昼の暑さが際立ちます。

 本日紹介する本は、駒沢敏器『アメリカのパイを買って帰ろう 沖縄58号線の向こうへ』(日本経済新聞社、2009年)です。

 標題にある「アメリカのパイ」とは、沖縄では有名なジミーのアップルパイのことです。沖縄では、なにかいいことがあったら、お利口にしていたら、また人が集まる時には、このパイが供されます。(といっても、わたしはアップルパイがあまり好きではないので、食べたことがありません。シナモンがちょっと苦手です)。

 このジミーのアップルパイの創業者のお話を皮切りに、嘉手納軍人がこよなく愛するCoCo壱番屋のこと、外人住宅にまつわるお話などを通して、この本では、米軍統治時代の沖縄の様子が描かれています。

 この本は、食べ物、住居、文化(とくにアメリカぐち)など、「米軍放出」の素材を独自にアレンジして自分たちのものにしてきた沖縄の逞しさと、どことなく漂う切なさを、淡々とした筆致の中で現した秀作だと思います。

 沖縄は、はじめ「うちなあ世」(世は“ゆ”と読みます)でした。琉球王朝が統治する独立国家だったのです。それが廃藩置県により「大和世」(やまとぅゆ)になります。琉球が沖縄県になったときです。そして「アメリカ世」を経て、現在はまた「大和世」です。この本を読むと「アメリカ世」にノスタルジーを感じる沖縄の人も多いのではないでしょうか。

2009年9月 5日 (土)

共犯者

 みなさま、残暑お見舞い申し上げます。夏は短かったように感じるのですが、それでも残暑は来るのですね。

 帰省中に、松本清張『共犯者』(新潮文庫)を読みました。

 本書には昭和39年から40年にかけて文芸誌に発表された清張の短編が10本、収録されています。どれも珠玉の作品です。権田萬作さんの解説は、冒頭で「松本清張の短編の魅力は何よりも人生の一断面を切り取る鮮やかな小説技法にある」(325頁)と評しています。まさにその通りだと感じました。

 ところで芥川賞受賞作を掲載した「文藝春秋」の中で、審査委員の石原慎太郎さんが、候補作の多くの表題を凡庸だ、と評していました。その点、本書に収録されている清張作品の表題は、どれも作品の内容を見事に現していると思いました。清張の優れた感性のなせる技なのでしょうか。

2009年8月23日 (日)

終の住処

 いまは曇っていますが、晴れの予報です。なんとなく朝は涼しくなってきたのでしょうか。

 きょうから1泊で天草に行きます。といっても、仕事です。天草にいくまえに読書の記録を。文藝春秋9月号に掲載されている、第141回(平成21年度上半期)芥川賞受賞作、磯崎憲一郎『終の住処』(新潮6月号)を読みました。

 この小説のテーマは、どうやら「時間」のようです。「時間の流れ」(ときのながれ)の曖昧さという誰もが持つ普遍的な感覚を、小説の形で描いたものです。ただ、小説の善し悪しは、例によってわたしには判断しかねるので、文藝春秋に同時に掲載されている選者の選評を合わせ読んでみることを、お薦めします。また、本日の朝日新聞にも、偶然にも、磯崎さんの『世紀の発見』(河出書房新社)と同時に、『終の住処』(新潮社)の書評が掲載されています。

 磯崎憲一郎さんは、現在も、三井物産にお勤めのようです。サラリーマンをしながら小説を書くことができる能力は、羨ましい限りです。

2009年8月14日 (金)

ゼロの焦点

 晴れた暑い日です。

 お盆というのに原稿書きです。といっても来週からある事情ゆえに頻繁に実家に帰らなければならないのですが。

 本来は原稿書きのために研究室にいるのですが、どうも筆が(パソコンが)進まないので、松本清張『ゼロの焦点』(新潮文庫)を読んじゃいました。

 この本は平野謙さんの解説にもあるように、推理小説というよりは「一個の文学作品」として読まれるべきもののように感じました。

 平野さんは、本書における清張の着想の素晴らしさを、つぎのように評しています。

 「一口にいって、オキュパイト・ジャパンという未曾有の社会的混乱のなかからひとつの社会的悲劇を、一見平凡な一会社員の失踪という事件に具体化した作者の着眼がすぐれており、その着眼を歩一歩と現実化してゆくプロセスもまたすぐれている」(解説・480頁)。

 この本は、本年1月に読んだ『点と線』と並び称される名作です。久しぶりの清張作品を(堪能するというよういな心の余裕はありませんでしたが)楽しめました。

 ということで、また原稿用紙(ワード)に向かいます。

2009年7月28日 (火)

阿部謹也自伝

 くもっています。蒸し暑い日です。

 昨日の大学院の演習をもって、前学期の講義がようやくすべて終了しました。あとは8月早々にある定期試験の実施と採点です。

 というわけで、読みかけていた『阿部謹也自伝』(新潮社、2005年)を最後まで読みました。

 わたくし、結構、自伝本を読むのが好きで、頃合いを見計らって過去にも数冊、自伝本を読みました。阿部謹也さんは、ヨーロッパ中世研究の第一人者、『ハーメルンの笛吹男』や「世間」研究で知られた西洋史家です。

 本書でもドイツ留学中に『ハーメルンの笛吹男』に出会ったことや、後にどのような考えで「世間」研究にむかったのかが、述べられています。

 また阿部さんは、一橋大学で学長まで勤めた人です。国立大学に勤務しているわたしにとって、大学内部の出来事や文部省(現・文科省)と大学の交渉の過程を読みやすく描いているこの本は、大変、興味深い本でした。

 その中の一節を引用します。これは「教養とは何か」という小見出しの下に書かれた一節です。

 「教師はいうまでもなく、自分が教えている教科が誰にとっても絶対に必要なものだと思っている。教師は大学院で勉強した時から、そう思い込んでいるのである。ところが現在大学生は同世代人口の五割近くを占めている。それほどの数の学生達が、大学教師になったエリート達と同様な価値観を持っているはすがない。彼らは大学で教えられている教科がどのような価値をもっているのかを知らす、少なくとも自分とは関係がないと思っているのである。大学における教養教育はまずこのような学生を知ることから始めなければならないのである。そして彼らの一人一人が自分を発見し、社会の中における自分の位置が解るまで指導しなければならないのである。大学の構造が今では戦前と全く違ってしまっているのに、教師は今も自分が学んだ学問が誰にとっても価値があるものだと思いこみ、それを理解しない学生を馬鹿にしているのである」(240頁)。

 本文は改行のあと「大学はこのような状態の中で確実に死にかけている。・・・」と続きます。わたしは自分が教えている教科が「誰にとっても絶対に必要なものだ」などという自信は持っていません。が、阿部さんのこの文章から、いろいろ考えることもありました。

 それにしても、阿部さんが学長なら、一面で頼りになるかもしれませんが、反面で、耳も痛いことでしょうね。阿部さんが学長時代に『「教養」とは何か』(講談社現代新書)を書かれ、教官から総スカンを食らったのも、わからないではありません。「教養教育」って、難しいですものね。

2009年7月10日 (金)

生と死の倫理学

 どんよりと曇っています。

 はやいもので7月も中旬になり、定期試験が気になる頃となりました。みなさまにはお変わりなく、お過ごしのことと存じます。

 試験問題を考えてみようとは思ったものの、なんとなく体からみなぎる覇気が感じられなかったので、読みかけの本を読みました。

 本日の本は研究室にあった、篠原駿一郎・波多江忠彦編著の『生と死の倫理学:よく生きるためのバイオエイックス入門』(ナカニシヤ出版、2002年)です。

 研究室の本なのでカバーの様子は知らなかったのですが、このような表紙なのですね。

 先日、臓器移植法改正案が衆議院を通過したのを切っ掛けに、すこし生命倫理のことを考えてみたいと思い、本棚に手を伸ばしました。その後、参議院でも改正案の修正案が提出され、審議されました(まだ、採決には至っていません)。

 この本には、臓器移植や「死の定義」の問題だけでなく、不妊治療、人工妊娠中絶、出生前診断など、いわゆる「生の問題」も含めて論じられています。

 とくに、現状ではすでに「人体部品の各種利用(リサイクル医療)」というのが進んでおり、米国のクライオライフ社では、たとえば心臓弁なら1つ6950ドル、アキレス腱1つ2500ドルで販売されているという「臓器移植とバイオエシックス」(山口意友さん執筆)という論文が興味深かったです。

 山口さんはこのような「人体部品のリサイクル医療」を「医学的カリバニズム」(カリバニズムは「人肉食」のこと)という衝撃的なタームを用いて分析しています。

 大学から大学院のころ、加藤尚武さんのものなどを中心に生命倫理について考えたことを思い出しながら、なつかしく本書を読了しました。

2009年6月16日 (火)

生存権

 きょうも晴れです。テンションが上がらないのは疲労のせいでしょうか。前期も半分が過ぎ、なんだか中だるみ真っ最中です。

 そんななか、立岩真也・尾藤廣喜・岡本厚『生存権』(岩波書店、2009年)を読みました。

 本書の編集者「堀切くん」(?)が3人の論客と生存権をめぐって対談しています。生存権といえば憲法25条を思い浮かべますが、憲法の読み物というよりも、社会保障法の読み物という感じでしょうか。生存権訴訟の先駆けとなった朝日訴訟から、「ワーキング・プア」問題といった現代的話題まで、扱われています。

 そのなかで尾藤さんが地方分権と生存権保障(社会保障)との関係を、その費用面から述べているところに目がとまりました。尾藤さんはつぎのようにいいます。

 「生存権の保障を分権化した場合にですよ、地方に財源がないということで、それで生存権の空洞化っていうのはあり得るわけで、私は地方自治の問題も実は二十五条と関連しているんだということを忘れちゃいかんと思うんですよね。あんまり言われていませんけど。自民党の案では、地方自治の条項の面で、そこが後退しているんです」(66-67頁)。

 先日2年生のゼミで2005年11月3日に発表された自民党の「新憲法草案」に少しふれました。それは地方自治体の経費について、94条の2で、つぎのようにいいます。

 「地方自治体の経費は、その分担する役割及び責任に応じ、条例の定めるところにより課する地方税のほか、当該地方自治体が自主的に使途を定めることができる財産をもってその財源に充てることを基本とする」。

 上記尾藤さんの発言は、この条文を想起しながらのものだと思われます。自主財源を得てこその地方自治だとは思いますが、国民の最低限の生活保障(この意味あいにも注意すべきことは立岩さんが述べています)こそ、国家の役割であるともいえると思います。社会保障のナショナル・スタンダードを維持し高めていくことは、地方分権化のなかでも国家の、そして国家にしかできないことかもしれません。

 いずれにしても『生存権』は下級生にも読みやすい内容と長さになっています。是非、一読してください。

2009年6月10日 (水)

裁判員の教科書

 雨が降っています。昨日(9日)に九州南部は梅雨入りしたようです。

 橋爪大三郎さんの『裁判員の教科書』(ミネルヴァ書房、2009年)を読みました。橋爪さんは昔から注目して多くの著書も読んできた社会学者です。

 本年5月21日(わたしの誕生日)からはじまった裁判員制度については、多くの書物が誕生しています。本書は、その中でも読みやすく、また裁判員制度の解説を通して、わが国の刑事裁判制度の神髄を解説した良書だと思います。

 いま「刑事裁判制度の神髄を解説した」といいました。それは橋爪さんのつぎのような刑事裁判についての見方に表れています。

 「刑事裁判で裁かれるのは、検察官である」。(14頁。他の頁にも同様の表現があります)。

 本書は、刑事裁判で裁かれるのは検察官であり被告人ではない、という一貫した視点から書かれています。また「刑法は、裁判官にあれた命令です」(26頁)ともいいます。この二つの命題の真意は、この本のなかにあります。

 そこで橋爪さんによる裁判員の役割とは。「それは、眼を皿のようにし、聞き耳を立てて、検察官の言動に注意を集中することです。検察官が犯罪を立証し、被告人の有罪を証明しようとしています。これが成功しているかどうか、判定する。これが、裁判員の役目です」(71頁)。

 さらに本書の後半では、現行刑事裁判制度に対するいくつかの問題点も分析されています。そのなかで、平成19年から導入された被害者参加制度についての橋爪さんの見解が述べられています。被害者参加制度とは、刑事裁判に被害者やその遺族が参加し、証人尋問や被告人質問ができるというものです。この被害者や遺族の意見は、裁判員に影響を与えずにはおかないであろう、と橋爪さんは考えて、この制度に否定的見解を表明しています。いわく、

 「感情も、人間に自然にそなわったものなので、裁判に反映しがちです」(194頁)とした上で「感情は、正義とも、刑事裁判のルールとも、関係ありません。むしろ、感情が邪魔をして、正義がわからなくなり、ルールを逸脱してしまいがちです。というわけで、率直に言えば、被害者参加制度は、刑事裁判にとってお荷物以上のなにものでもありません」(同)。

 というわけで、いつものように収まりの悪い終わり方ですが、裁判員って、困るな~、と思っている方にお薦めの一冊です。なんといっても日本語がわかりやすい。この辺にも橋爪さんの思考力の高さが表れていると思います。

2009年6月 5日 (金)

思想2009年6月号

 さっき雨が降りました。依然として不安定な空模様です。

 きょうは掲載されているいくつかの論文が気になったので、岩波書店から刊行されている月刊誌、『思想』の1022号(2009年6月号)を読みました。この月刊誌は今世紀にはいってから定期購読しています。

 なぜ気になったかというと、「グーグル検索」、「グーグル裁判」(和解)をめぐる読み物が数点、掲載されているからです。

 「グーグル検索」とは、グーグルが世界に名だたる大学の図書館や公共図書館に所蔵されている書籍をデジタル化し、インターネット上で無料で提供する、という試みです。グーグルは、すでに下記のことを行っています。

 ①世界の著名な図書館に所蔵されていて、すでにパブリック・ドメイン(著作権の切れたもの)にある書籍をデジタル化し、全文を検索可能な状態で、インターネット上に提供する。

 ②まだ著作権に守られている図書館所蔵本でも、それをデジタル化し、本文の抜粋をインターネット上に提供する。

 この②に対して、アメリカでクラス・アクションが提起され、その訴訟が2008年の10月に和解に達しました(ニューヨーク連邦地方裁判所)。クラス・アクションとは、多数の利害関係者(クラス)がいる問題で、そのクラスの代表が全体のために訴訟を提起し、勝訴・敗訴にかかわりなく、その判決の効力はクラスの全員に及ぶというアメリカの訴訟類型です。ちなみに訴訟を提起したのは、全米作家協会と米国出版社協会です。

 上記の和解の条件はちょっと複雑なので割愛しますが、この和解の対象者は、2009年1月5日以前に出版された書籍で、アメリカ国内で著作権を有する者のようです。わが国の権利者は、著作権に関する条約であるベルヌ条約により、アメリカ国内でも著作権をもちます。ということは、わたしも和解の当事者(?)。

 「思想」に論文を掲載している福井健策さんも「なんとも強引」と評しています(144頁)。

 この「グーグル和解」に対して、権利者としての選択肢としては、日本書籍出版協会によると、以下のものがあるようです。

 ①和解に参加する。なにもしなければ自動的に和解したことになる。

 ②和解への参加拒否の意思表示をする。2009年9月4日が期限のようです。

 ③2009年9月4日までに異議申し立てをする。

 ④和解に参加した後、絶版、市販中止となった書籍の削除をもとめる。

 ⑤和解に参加した後、特定の書籍については削除をもとめる。2011年4月5日までなら、和解後でも、希望する書籍については、グーグルのデータベースからの削除を求めることができるようです。

 昨日(4日)の朝日新聞の記事によると、日本文芸家協会は、会員に「和解してデータを非表示にする」(⑤?)という選択肢を薦めているようです。

 和解云々というのはともかく、なんだか大変なことになっているようです。「思想」に「グーグルと書物の未来」という論文が掲載されているロバート・ダーントンさんは、このグーグルの試みについて「近い未来、読者に書籍を届けるやり方に甚大な影響を及ぼすであろう」(174頁)と予言しています。

 グーグルの試みは「世界最大の図書館」(ダーントン論文181頁)をわたしたちにもたらしてくれるのでしょうか。でも、ダーントンさんによると、懸念材料もあるようです(詳しくは「思想」掲載の論文を参照してください)。

 ということで長くなりそうなので、この辺で・・・(中途半端で済みません)。

 【お知らせ】司法試験短答式の合否が発表されました。短答式の大学院別の結果はここです。(法務省ホームページにあるページにリンクしています)。

 ところで、こういう時の合格率は出願者ベースでしょうか、受験者ベースでしょうか。一部では出願者ベースで評価しているようです。こうすると、辞退者も不合格者にカウントされて、正確ではないように思います。受験者ベースなら、勤務校は、よかった~とはいえないかもしれませんが、落胆するような結果でもないように思います。

 

2009年5月22日 (金)

世界2009年6月号

 朝方の雨もあがり、いまは晴れています。

 唯一、講義のない金曜日は、来週の準備をして過ごしています。準備の合間に、「世界」2009年6月号の特集を読みました。

 特集は「岐路に立つ象徴天皇制」です。このなかに、渋谷秀樹先生の「日本国憲法と天皇」と題する論文があります。憲法第1章(8箇条)からなる「象徴天皇制」の法理論を的確にまとめられた論文です。

 憲法の講義中にも渋谷先生の論文ことを紹介しました。「世界」は現在も本屋さんの店頭のほか、資料室にも図書館にもあるので、象徴天皇制の講義を受けた学生諸君に、是非、読んでもらいたい論文です。

2009年5月12日 (火)

平成20年度重要判例解説

 暑っつくなってしまいました。講義の合間をぬって、平成20年度「重判」を読みました。

 「親HP」(http://www1.bbiq.jp/obinata/)の憲法のページで「平成20年度以降の判例を中心に」憲法判例を拾遺するといったわりには、ぜんぜんやっていなかったので、「重判」を読んで「親HP」の該当ページを少しは充実させました。

 きょうの夜からは雨が降るようで、少し蒸し暑い感じまでします。そんななか、これから大講義室で講義です。連休明けはじめての講義なので、配布プリントも“ころあい”を考えて用意しました。

2009年5月 6日 (水)

日本国憲法の二〇〇日

 快晴です。渋滞中の方(見ているわけないか)、お疲れ様です。

 本日は連休明けの準備のために、悲しいかな出勤です。抗議(「こうぎ」と入力するとどういうわけか、これが最初に変換されます)ではなく、講義準備の合間に、半藤一利『日本国憲法の二〇〇日』(文春文庫、2008年)を読みました。連休最後の日にふさわしい(?)読書でした。

 1945年(昭和20年)8月15日から「憲法改正草案要綱」を閣議決定するまでの200日間(正確には21年3月6日なので203日間)の歴史的事実を記述した歴史書。ただ、当時15歳だった著者の感想やその父親の言葉、高見順や山田風太郎の日記からの引用などを用いて語られた新憲法誕生までのドキュメントは、たのしい読み物にもなっています。

 解説を書かれた梯 久美子さんも、解説の冒頭で「日本国憲法について書かれた書物は数多あるが、こんなにも人間くさく、ドラマチックな本をほかに知らない」(368頁)としています。たしかに、当時の15歳の感覚が生き生きと描かれた本になっていると思います。

 ゴールデン・ウィークもこれで終了。もういくつ寝ると夏休みでしょうか?

2009年4月27日 (月)

9条どうでしょう

 雨が降ったりやんだりしています。寒い一日になりました。

 昨日、「憲法の季節」読書第2弾として、内田 樹ほか『9条どうでしょう』(毎日新聞社、2006年)を読みました。

 いまをときめく社会思想家・内田先生の“このままでなにか問題でも?”という挑戦的言説にはじまり、4人の方が気ままに9条論を展開しています(この「気まま」、もちろんよい意味です)。

 法理論から離れて、でも本質的議論を楽しみたい人むきの本です。改憲論からすれば焦眉の急であるはずの9条問題を、肩の力を抜いて考えることができます(もっとも、肩の力を抜いて考えるのが4人の著者の狙いではないかもしれませんが)。

 ところでここで業務連絡をひとつ。「親HP」に新しく「法学部のなか」のページを設けました。まだ構築途上ですが・・・。熊大法学部のなか(の雰囲気)を伝えようと思い立ったのですが、講義内容やカリキュラムは法学部公式HPにありますし、同僚先生の人間関係では炎上→閉鎖必至(よい意味でも?)ですので、大事をとって施設案内にしました。面白みは欠けましたが・・・。よろしかったら、こちらをどうぞ。

 わたしの「親HP」。

2009年4月17日 (金)

敗戦後論

 まぁ、晴れでしょうか。ちょっと薄曇りかも……。

 今日は娘の幼稚園の先生が家庭訪問に来ました。父親として、一応、同席しました。あまり役には立っていませんでしたが……。おまけに、足がしびれて立てなかったし……。

 ということで(?)、加藤典洋『敗戦後論』(講談社、1997年)を読みました。

 4月中旬から5月上旬にかけて、職業柄からかもしれませんが、「憲法の季節」のように感じます。この時期になると、憲法の本でも読んでみようかぁ、と毎年感じます。

 今年は「憲法の季節」の読書第1弾として、この『敗戦後論』を読みました。この本も、何年もまえから、本棚の一角を占めていたものです。

 加藤さんはこの本で、戦後の原点には、ある「ねじれ」があるといいます。それは、「武力による威嚇又は武力の行使」をしないという条項をもつ憲法が、原爆という最大の「武力による威嚇」の下に押しつけられたことについて、さしたる抵抗もなく受け入れられてきている、ということです。この「ねじれ」を正すためにも、この憲法をもう一度「選び直す」べきであるというのが、『敗戦後論』での加藤さんの主たる主張です。

 この他にも文芸批評家らしくさまざまな文学作品を取り上げて、敗戦後の思想状況を分析している点はさすがに圧巻です。

 ようやくこの本を読めて、なんとなくホッとした一日でした。

 いま、熊本の老舗酒造・美少年が民事再生法の適用を申請した、とネットニュースで知りました。なんか、悲しくなりました……。

2009年4月 1日 (水)

高校から大学への法学

 よい天気です。桜の花びらが舞っています。

 ついに新学期になってしまいました。が、まだ1週間は講義がりません。セーフです。

 ということで、新学期に相応しく、君塚正臣先生編の『高校から大学への法学』(法律文化社、2009年)を読みました。

 「フランス革命ってなんですか?」との質問を受けた編者が、高校の教科書に載っている基本用語で大学の「法学入門」のテキストを作成した、異色の本です。一通り読んでみて、西洋史や政治史にはじまり、民刑事法、商法、労働法、国際法、国際関係論と、それぞれの章ごとに各科目のエッセンスが簡略にまとめられていて、よい本だと思いました。法学部新入生にお勧めの一冊です。

 ところでこの画像、どこかで見たことありませんか?そうです、わたしはこの姉妹編の『高校から大学への憲法』の制作に参加させていただきました。『高校から大学への憲法・法学』への2冊は、その刊行を新年度にキッチリ合わせてくるところから、編者の先生の並々ならぬご苦労が窺えます。執筆者に加えていただいたことを、編者先生に感謝しております。

 さて、今日のおまけの画像です。Cimg2002

 これは研究室がとなりのF先生からいただいたレタスです。写っていませんが、ネギもいただきました。あまりにも立派なのでデジカメで写しました。F先生の家庭菜園のものとのこと。久しぶりに妻に喜ばれました。

2009年3月25日 (水)

入門 制度経済学

 昨日、一昨日より少し気温は低めですが、よい天気です。

 今日は勤務校で卒業式がありました。みなさま卒業おめでとうございます。

 Cimg1975_2

 卒業式ということで、桜の画像を。これは五高化学実験場わきに咲いた桜です。

 というわけで(?)、本日は、シャバンス『入門 制度経済学』(ナカニシヤ出版、2007年)を読みました。

 経済を「制度化されたもの」とみる制度経済学の諸学派の代表的見解が、コンパクトに整理された好著です。専門用語も簡単な(わかりやすい)説明が付されていて、初学者のわたしでも、最後まで読み切ることができました。

 ところで「制度」とはなにか。これ、ひとことで言うのはものすごく難しいと思うのですが、長い間に生成されてきた非意図的な行為の枠組・コードのようなものでしょうか。論者によってマチマチなのですが、貨幣、市場、道徳などが、制度の例だと思います。文法とかあいさつ・マナーなども、ここにいう制度です。

 こういう制度の分析を通して、非意図的なものの意図的なものに対する優位性を明らかにして、社会主義批判(設計主義批判)を展開したのがハイエクでした。経済学における制度学派の知見から一般理論を抽出し憲法理論にそれを照射してみることはまだまだ先になりそうですが、まずは制度的分析手法の概要、有意性を把握すべく、さらなる読書を展開したいと思います。

 そういえば、第2回WBCは、日本の連覇で終わりましたね。投手の投球数制限はリトルリーグを思わせるルールですが(わたしの頃は、たしか1週間で6イニング?しか投げられなかったはず)、3年後の次回大会では、どのようなトンデモ・ルールになるのでしょうか。アジアから1チームとかになったりして・・・。

2009年3月23日 (月)

琉球弧に生きるうるわしき人たち

 快晴!勤務校の桜は、満開とってもいいのですが、少し控え目で八分咲きということろでしょうか。

 WBCで日本はアメリカに9-4で快勝。あすはいよいよ韓国との決勝戦です。韓国は日本の緻密な野球にキューバやアメリカのパワーを備えた野球をするので、どうなるでしょうか。

 ところで読書は進み、本日は、小林照幸『琉球弧に生きるうるわしき人たち』(岩波書店、2004年)を読了しました。

 著者は「琉球弧」を「うるま」と読ませています。

 米軍統治下で祖国復帰を願い、“日の丸”を米軍統治への反抗のしるしとして掲げた沖縄。そこには日本国憲法への憧れがありました。

 1972(昭和47)年5月15日に日本復帰を果たした沖縄の期待に、日本政府はどうこたえてきたでしょうか。5月15日という日付に象徴されるように、日本国と合衆国の両政府の都合に翻弄された沖縄返還。その沖縄を、わたしたちはどのように感じてきたでしょうか。(5月15日という返還日は、日米両国の会計年度開始日の中間点という理由で、決められました)。

 本書は、基地のこと、平和のこと、文化や伝統のこと、これらについての沖縄と本土との間になる距離間、そして距離感をうめる、「もうひとつの沖縄ノート」です。

 ところで著者は、わたしの小学校時代の友達のお兄さんです。この友達はクラスのなかでもとてもよくできる人で、夏休みの「ひとり一研究」で、たしかテントウムシの研究で大きな賞をもらっていたのでは。当時からそのお兄さんは、よりできると評判だったので、この名前はよく覚えています。

 長野在住の人の本なので、たとえば、「小学校1年生の5月・・・長野駅前の百貨店で生きた蛇の巡回展が行われ・・・」というような記述の「駅前の百貨店」がすぐ「ながの東急」のことだとわかったりして、楽しく読むことができました。(小林兄弟は、ながの東急といえば、蛇や昆虫といった展示会を思い浮かべるアウトドア派だったと思います。わたしなど、ながの東急の催物といえば「将棋まつり」を思い浮かべるインドア派でした)。

 とまぁ、勝手なことを書きましたが、たしかな取材をもとに構成されている本書は、読み応えのある沖縄関係本でした。

 (ただ257~258頁あたりの、沖縄には花火大会がない、という趣旨の記述。沖縄で一時期を過ごしたわたしの経験からいうと、沖縄にも花火大会はあった、と思います。著者は小学校の頃に「海洋博」に憧れていたとありますが、その海洋博記念公園で、例年盛大な花火大会が行われていました)。

2009年3月22日 (日)

「芸能と差別」の深層

 本格的な雨に、咲き始めの桜が晒されています。

 「沈黙の期間」に、三國連太郎さんと沖浦和光さんの対談『「芸能と差別」の深層』(ちくま文庫、2005年)も読みました。(沖浦さんは、比較文化論、社会思想史を専門とされる学者さんです)。

 日本の芸能には、社会の底辺にあって賤民視されていた遊芸民が深く関わっているようです(18頁参照)。本書は、能・狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎、大衆演芸といった伝統芸能の始原と、それらの演者をとりまいていた環境についての対談です。

 わたしは、釣りバカ日誌のスーさんでお馴染みの三國連太郎さんが、これほどまでに芸能史、芸能論を勉強していることに、驚かされました。三國さんの破天荒な人生も語られていて、あっという間に読み切りました。

 また、世阿弥の芸能論、『東海道四谷怪談』、『桜姫車文章』で知られる鶴屋南北、近世では永井荷風などの芸能論も適宜解説されていて、読みごたえもありました。

 どうやら芸能者が賤視されたのは、幹非の法家思想の影響のようです。直接生産活動に従事していない者が〈賤〉とされたようです。この意味では、学者もそうでしょうね。社会秩序を揺さぶり、ときに預言者的なところもあったのでしょうから。本書のなかには、シャーマン的な職も賤視されたとありました。

 本書で印象に残っている部分は、つぎのところです。三國さんの役作りについての話の場面で、以下のような対話がなされています(100頁)。

 (沖浦)「研究者も同じですね。自分の情念というか、『思い入れ』が入らない論文は、やっぱりいくら書いてもダメなんですね。『これは書かんといかん』『なんとしても書きたい』と、グーッと気持ちが入らないと、パンチ力のある生きた文章にならない。・・・」

 (三國)「よく分かります。私も自分の実人生と、演じている役柄は全く別人格だと思って、若い頃はやってきたんですけどね。しかし、自分と演じている人物は全く別の人格だと割り切って、その役を演じ切ることはできない、それは錯覚だったと気がつきました。・・・」

 わたしの研究など、ダメダメですね~。「〈気〉や〈情〉が入っていないと、いくら書いても自分の生きたコトバにならないで、形骸化した文章しかできません」という沖浦さんの言葉。耳が痛い言葉でした。

2009年3月21日 (土)

カラマーゾフの兄弟

 暖かい花見日和の日。久しぶりに娑婆の空気を吸いました。

 この長い沈黙期間に本棚の肥やしになっていた、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(全5巻、亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫)を読みました。

 【第1巻】「わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている」という書き出しに始まる「著者より」から、全篇4部構成からなるうちの第1部が収録されています。

 登場人物の紹介、人物像の記述が中心の第1部ですが、ドストエフスキーの手による文章の背景を読み解けば、第1部の意義はそれにとどまりません。この点については、訳者である亀山郁夫さんが巻末に付した「読書ガイド」を参照してください。

 わたしは、教会と国家との関係について、教会が裁判など国家の任務を代行することで国家の上位に立つべきであるというドストエフスキー自身の見解を、カラマーゾフ家の次男イワンにより語らせている第2編「場違いな会合」など、序盤から読み応えのある場面が続いていると感じました。

 また、第3編「女好きな男ども」の中の一文、「理性には恥辱と思えるものが、心には紛れもない美と映るもんなんだよ」は、美(エロス)の本質を説く名文だと思いました。

 【第2巻】4部構成の第2部です。巻末の亀山「読書ガイド」は、古典派交響曲の楽曲構成に準えて「緩徐楽章」にあたるとしています。これも「読書ガイド」にあることですが、ここでは「個性派脇役」の記述が中心です。

 また、第1部との関係では、ヴォルテール哲学(とくに彼のライプニッツ・楽天主義批判)とゲーテ『ファースト』(とくにその第2部フィナーレの「天使に似た教父」)を典拠とした、神の存在についてのイワンの論述が興味を引きます。

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟」の中で「ヨハネの福音書」第12章24節のつぎの言葉を3度ひいています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの身を結ぶ」。これなんか、よい言葉ではないでしょうか。

 【第3巻】前半は、主人公・アレクセイ(三男)が敬愛するゾシマ長老の遺体から発せられた「腐臭」によるその権威の揺らぎ、長兄ドミートリーの恥辱とカラマーゾフ家と深くかかわるグルーシュニカの過去の恋愛の清算が中心に描かれています。

 後半は、「父殺し」の嫌疑をかけられた長男ドミートリー(ミーチャ)への尋問の様子が中心です。ここを読むと、興味深いことに、本書執筆当時のロシアにもいわゆる適正手続の思想があったことがわかります。

 ところで、名前の煩雑さ・複雑さが嫌われるロシア文学ですが、各巻の中心登場人物名とその役どころを記したしおりが各巻に付属されていて、読みやすくなっています。

 【第4巻】次男イワンと真相を語るカラマーズフ家の下男スメルジャーコフ(イワンに唆されてフョードル(カラマーゾフ父)を殺したという。スメルジャーコフはフォードルの子か?)のやりとりと、ミーチャ(長男、ドミートリー)を被告とする「父殺し法廷」の様子が描かれています。

 とくに敏腕弁護士・フェチュコーヴィチの立証されたもの(裏づけのあるもの)だけを重視する法廷戦術が見ものです。フェチュコーヴィチは、当事者の心理分析に頼りすぎることにも、反対しています。

 ここではフェチュコーヴィチ最終弁論の一節「子どもをもうけただけではまだ父親ではない、父親とは、子どもをもうけ、さらにそれにふさわしいことをした者のことだ」(649頁)が、心に響きました。

 文庫本で700頁弱の第4巻には、登場人物の言葉の端々に、興味深いテーマがちりばめられています。そのなかでも、歴史・古典語に関する学問論に目が留まりました。たとえば、国家・都市を建設するということは、なにを意味するのか。古典語は各国語に訳されているのに、それでも古典語を学ぶ意義はなにか。こういうことが、今回の読書では気になりました。

 【第5巻】まず、エピローグには、外伝的後日談が3編おさめられています。

 また、訳者・亀山郁夫さんによる「ドストエフスキーの生涯」には、『カラマーゾフの兄弟』のモチーフとドストエフスキーの生涯との関係が説かれています。どうやら本書は、ドストエフスキーの自伝的性質をもつ作品のようです(89頁参照)。

 さらに「ドストエフスキーの生涯」には、彼の作品を評して、以下のような記述があります。「問題とされたのは、社会における裁判の役割、人間の責任能力、暴力に対する国家の権利、死刑、裁判における証拠の役割、そして誤審等の問題である。こうした法の根幹に関わる問題とふれることで、彼の小説は、はるかな深みを獲得していったと考えることができる」(100頁)。ドストエフスキー小説のテーマを法学者の眼で見てみることも、意義深いことかもしれません(西洋法制史のテーマでしょうか)。

 これも訳者・亀山さんの手による「解題」には「再読を考える読者のみなさんにぜひともお願いしたいのは、プロットの単線的な流れと複線的な流れ、すなわち、どこでだれが同時に何をしているか、という点をつねに念頭に置きながら、読み進めてほしい」(182頁)とあります。ダイヤグラムを意識した読み方をすると、また違った味わいがあるということでしょう。

 「父殺し」の話であることは知っていたのですが、遅ればせながら、はじめて『カラマーゾフの兄弟』を読みました(恥ずかしながら)。論理哲学者ヴィトゲンシュタインは、10度を超えて、これを読み返したとのことです。合計2000頁を超える本書を読み返す機会は生涯に何度もないでしょうが、近いうちに必ずや再読に挑戦してみたいと思います。

 ドストエフスキーは、本書の続編ともいえる「第二の小説」を予定していながら、60歳で死亡しました。本書をはじめてよみ、『カラマーゾフの兄弟』は、人類がついに手にすることができなかった未完の作品であることも知りました。

2009年3月 2日 (月)

致命的な思いあがり

 よく晴れています。花粉もびゅん、びゅん、飛んでいます。

 週末に読みかけていた、ハイエク『致命的な思いあがり』(春秋社、2009年)を読みました。

 この本は、春秋社から刊行されているハイエク全集第Ⅱ期の第1巻として配本されたものです。訳者は、ハイエクをはじめ、ロールズ、ローティ研究に精通しておられる山口大学の渡辺幹雄先生です。

 古賀勝次郎「解説 - 自由主義社会のマニフェスト」にあるように、本書は「ハイエクの60年以上にわたる学問・研究が最後に辿りついた地点を簡潔に論じ」(235頁)たものです。そのハイエクの到達点というのは、一言でいえば、中央計画経済・統治の不可能性、社会主義・設計主義の非合理性ということろでしょうか。本書では、このことが、たたみ掛けるように説かれています。

 貧困、格差社会、(新)自由主義経済の悪弊が声高に説かれている現在、ハイエクの言説は、なかなか受け入れられないものなのかもしれません。ただ、長期的視点にたったとき、ハイエクは、説得力ある経済思想、法思想を提供したと思います。

 わたしはそのハイエクに聞いてみたいことがあります。それは、貧困、格差社会、経済大混乱という状況に、政府は、市場介入、企業の国営化、ケインズ的雇用・需要創出といった政策を、一時的にでも、するべきではないのかということです。もしそうだとすると、上記のような状況を、どうしたら乗り越えられるのか、ということです。100年に一度の(未曾有の)経済危機に対する処方箋を、ハイエクに聞いてみたいものです。

 彼はバブル経済崩壊後の1992年に亡くなっているので、この問に答えてもらうことはできません。ただ彼が生きていたら、いまのオバマ政権をどのように評価するのでしょうか。ハイエキアンの方、いかがですか?

 それにしてもこの本の題名、わがことのように感じて、ギックッとしました。わたしだけでしょうか。

 週末には、研究室の中も外も、雨が降りませんでした。

2009年2月16日 (月)

いま哲学とはなにか

 晴れていますが、風が強く、昨日・一昨日と比べると、気温も低めです。

 昨日、確定申告の書類を作成したあと、岩田靖夫『いま哲学とはなにか』(岩波新書、2008年)を読みました。

 ソクラテスや正義問題の研究の大御所、岩田靖夫さんによる「ひとはいかに生きるべきか」を追求したこの本は、コンパクトでありながら、哲学の根源的問題を扱った充実の哲学書です。

 差別や戦争の問題、なかには富の再分配(国内的、国際的規模での)の問題に関する示唆もあり、昨日は、日がな一日、この本とともに過ごしました。

2009年2月11日 (水)

ポトライムの舟

 今日も晴れています。神武天皇が即位した日とされる今日は、かつての紀元節、建国記念の日です。

 勉強しようと思ったのですが、研究棟の改修工事の音が気になったので、昨日買った文藝春秋に掲載れてている第140回(平成20年度下半期)芥川賞受賞作品、津村記久子さんの「ポトライムの舟」を読みました。

 「無劇性の劇ともいうべき、盛りをすぎた独身女性の日々の生活の根底に漂う空しさを淡々と描いてい」(石原慎太郎さんの「選評」より)るこの作品は、そうであるからこそ、読み手の日常の生活を省察させる契機を与えていると思います。

 「生きていることの細部を、どんな劇的な営為よりもかけがえのないものとして、読み手の方に届けることができるような小説を書いていきたい」(「受賞のことば」より)という津村さん。淡々とした筆致のなかにも、「維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。」(372頁)という力強い一節を掲げています。“読み手の日常の生活を省察させる契機を与える”とわたしが上記したのも、こういった一節から得た感想です。

 内容については、いつものように、皆様で。

2009年2月10日 (火)

ハイエク

 よく晴れています。

 購入した際、著作権・知的財産権のところだけを斜め読みしただけだった、池田信夫『ハイエク:知識社会の自由主義』(PHP新書、2008年)を一通り読みました。

 ハイエクは指導教官が傾倒していた思想家です。大学院のとき、社会民主主義的傾向をもつロールズの思想を批判的に検討する際に参考にしました。

 規範的判断を好むわたしの思考法に、今でもロールズの思想はマッチしていると思いますが、自由の枠組は自生的に生成される(自生的秩序)ととらえているハイエクにすれば、正/不正の規準があると考えること自体、人為的で受け入れがたい思考法なのでしょうね。

 さて、池田さんのこの本。ハイエクの入門書として最適の本です。上にも少し書きましたが、知的財産権についてのハイエクの見方や、サイバースペースの秩序論といった現代的問題にも触れられていて、ハイエク思想の“きほんのキ”が的確にまとめられていると思います。

 また、本書の内容を補完する「サポート用ブログ」もあります。

 『ハイエク』サポート・ブログ

 春秋社から全集第Ⅱ期の刊行もはじまり、今年は、この状況だからこそ、ハイエクに注目が集まればと思います。

2009年1月30日 (金)

国家の読み解き方

 雨が降っています。

 今日は、午後から、ある審議会に出席するため外出します。その前に、途中まで読んであった原田武夫『国家の読み解き方』(勁草書房、2006年)を読みました。

 全体としては、立憲主義、「国家からの自由」を標榜している「戦後日本憲法学」(宮沢-芦部-以下、東大の人たちとつづく(?))が国家権力の縮減を目指す議論を展開し、「官から民へ」を旗印とする最近の国の政治もそれに同調しているため、国家そのものの存在が希薄化してしまっていることに警鐘を鳴らす本です。

 元外交官という著者の経験から得た知見をもとに、国家や憲法というのは、外交交渉の場面でその機能がもっとも先鋭化するとの立場から、以下のように述べています。

 「・・・『官』を解体することが、結果として国外の第三者の利益になっていないかというチェックも必要ではないでしょうか。日本の島国を一歩でも踏み越えた瞬間、国外では世界各国が『国富』の奪い合いを演じているのが国際社会の実態です。そのような中で、思慮なく自分から丸腰になっていくような国があり、かつその国が人一倍、『国富』を溜め込んだ国家であったとしたならば、他国の目には一体どのように映るでしょうか」(174-175頁)。

 これは職業官僚制の「非効率性」、「不透明性」を批判し、いわゆる構造改革(「官から民へ」)を唱える言説に対する批判という文脈で述べられています。規制緩和により外国資本が続々とわが国に入り込んで来て、一方でわが国の消費者の利益になっている反面で、他方わが国の「国富」が外国に移転してしまっているようにも見える現状に、国家が担う本当の役割は何なのかを考える上で参考になる視点が、随所に散りばめられていました。

 この本の副題には「憲法学という教養」とあります。わたしは本書の内容に全面的に賛同するわけではありません。ただ、とくに統治機構論を考える際、はたして国家とは何者なのか、その役割は何なのかを思索するための副読本として好適書であると感じました。

 著者の略歴からドイツを専門としていたようで、この本のなかにもシュミットやスメントの見解が引用されてします。

2009年1月23日 (金)

時間の習俗

 小雨が降っています。この分だと雪になるかも。

 本当は、今日も先週末に実施された大学入試センター試験の振替休暇の日ですが、2日も連続で休む時間的余裕も精神的余裕もないので、出勤しました。この世界、一寸先は闇ですから・・・。

 とはいっても、昨日途中まで読んだ松本清張『時間の習俗』(1962年作)の続きが気になったので、紀要論文の校正の仕事の前に読みました。

 正月に読んだ『点と線』で活躍した警視庁の三原警部補と福岡県警の鳥飼刑事が今回も活躍しています。

 今回のものは、カメラ・フィルムの順番のトリックをどう見破るかが謎解きの中心です。昭和37年当時は、カラー写真の現像はまだ街のお店でできなくて、直接フィルム製造会社に依頼していたようです。デジカメ時代になった今では、少し、信じられない話ですね。わたしも憲法の講義で法実証主義をお話しするときに、ネガの状態にある法理論ではなく、ポジの状態にされたものだけを(したがって制定法とそこから演繹される法規範だけを)分析対象とする法思想であると説明するときに、写真のフィルムの話をするのですが、今の学生にはフィルムそのものに馴染みがないようです。

 ということで、またまた内容には関係ない話ですが、まぁ、内容はいつものように読んでもらうということで・・・。

2009年1月19日 (月)

生誕100年の作家たち

 今日は、晴れの予報です。

 一昨日・昨日と大学入試センター試験が実施されました。わたしの担当した試験室では、大きな混乱(小さな混乱も)なく、無事に試験が実施できたように思います。受験生のみなさま、そして監督者の方も、お疲れ様でした。

 はじめて担当試験室の主任監督官を務めたので、いい得ぬ疲労感が残り、あまり勉強する気になれません。そこで、中央公論2009年2月号を読みました。これを買った目的は「生誕100年の作家たちを読み直す」という特集を読みたかったからです。

 1月4日のブログで今年は松本清張が生誕100年であることを書いたとき、そのとき太宰治も生誕100年で、ちょっとびっくりしたといいました。

 この特集では、その他に、中島敦、大岡昇平、植谷雄高が生誕100年であることを上げ、5人をめぐる特集がされていました。

 この特集の冒頭では、高橋源一郎さん、加藤典洋さん、関川夏央さんによる「20世紀の落とし子たちの文学」という座談会が掲載されています。その中で同じ年生まれの作家、「学年が一緒」の作家、という視点で書いてきたものを分析するということがあまりなされてこなかったとこが指摘されています。大変、興味深い指摘だと思います。わたしが松本清張と太宰治が「同じ年」であったと思っていなかったことも、不思議ではないようです。そもそもこれまであまりそういう視点で、文学評論されてきなかったようです。高橋さんが「『学年が一緒』というのは同じ時期に同じものを見て、同じものを読んで、同じものから影響を受けている。それが30年後、40年後にいろいろな形で表れてくる」(193頁)といっています。そういうものかなぁ~、と思いました。

 そういえば、勤務校の同僚先生の中には、同じ年の方が多いのですよね~。同じ時期に同じものを見て、同じものを読んで、同じものから影響を受けても、それが40年後にはいろいろな形で表れてくるのですね~(深い意味はありません)。みなさん立派な方ばかりなので、わたしが1歩も2歩も成長が遅れているという感じです。

 生誕100年の作家たちの特集を読んだあと、どうしても気になったので、もうひとつの(むしろ目立っている方の)特集も読んでしまいました。その特集とは、ズバリ「大学の絶望」!。せっかく入試監督が終わったのに、あんまり「絶望」、「崩壊」といわんといて!、という感じです。ふぅ~。

 (なお、引用中の漢数字の部分は算用数字に改めました)。

2009年1月13日 (火)

天皇家の財布

 朝、雪がちらつきましたが、いまは晴れています。それにしても寒い週末(連休)でしたね。

 わが家の連休は安・近・短ということで、プリキュワの映画を観にいきました。といっても、わたしは実際の映画館までいったのですが、大人1800円にビビって、本屋さんで本を購入し、スタバで時間を潰していました(妻はレディース・デーで1000円でした)。

 スタバで読んだ本は、森 暢平さんの『天皇家の財布』(新潮新書、2003年)です。

 この本は先日の「慰労会」(1月6日)の席上で話題になり、気になったので読んでみました。

 まず著者は、皇室には4つの財布があるとします。そのうち3つは、憲法の講義でもふれる宮廷費、内廷費、皇族費です。宮廷費は公費、内廷費と皇族費は「御手元金」よも呼ばれているように私費です。このほかに、宮内庁費があるというのです。これは、もちろん公金です(広義の皇室関係経費としては、このほかに皇宮警察に関するものもあります)。

 「4つの財布」のいずれも宮内庁が管理しており、同じものを買うにしても、その使途に応じて違う財布から支出しているようです。(たとえば、同じ鉛筆でも、「天皇陛下の公務用であれば宮廷費、愛子さまのお絵かき用ならば内廷費、秋篠宮さまのナマズの研究用だったら皇族費、職員の事務用なら宮内庁費」(14頁)というように)。また、同じ学習院の授業料でも、愛子さまのものは内廷費からなのに、もし愛子さまが男の子なら、宮廷費とのこと。これは女性天皇が認められていないことに関係しているようです。皇位継承者の教育は公費で(したがって宮廷費で)支出するとのことです(75-76頁)。

 このように結構詳細に使途目的に応じて財布が使い分けられているようですが、実は、これほど単純ではないと著者はいいます。公使の区分はそれほど明確ではないでしょうし、実際の生活には、さまざまな費用がかかりますから。その辺のところは本書を読んでみてください。本書は、プライヴェートにかかわるような事柄についての紹介もあり、興味深く読み切れます。天皇家も株式投資をしているとか、宮廷費・内廷費・皇族費は非課税だが、それ以外の収入(たとえば印税収入など)は、天皇陛下の場合なら住所のある千代田区に、皇太子殿下の場合には港区に、それぞれ納税していることなろ、「天皇家カルトQ」ネタもありました。

 また、日本国憲法88条で「すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない」とし、8条では「皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基づかなければならない」と規定しています。この理由を著者は「戦前の皇室が巨額な財産を持ち、政治・軍事上の支出に充てられた反省に立っている。財産が莫大になり影響力が膨らむことで、皇室が国会の統制外に陥る事態を憲法は禁じているのだ」(88条の文脈で106頁)としています。ただ88条にいう皇室には宮家は含まれないと考えられていることから、宮家の財産は、一般に宮内庁そして国会の統制からは距離を置かれているといいます。この理由は本書には書かれていませんが、おそらく天皇(家)が日本国および日本国民統合の象徴(1条)である(したがって政治的・社会的影響力からより中立的であることが要請される。中立的であるからこそ、象徴としての機能を果たせる)のに対して、宮家はそうではないからだということでしょう。

 憲法の講義では詳細に触れる余裕のないお話がされており、統治機構を読んじる際には紹介したい1冊でした。

2009年1月 4日 (日)

点と線

 みなさま、新年、あけましておめでとうございます。本年も、どうぞご贔屓に。

 本日は「正月晴れ」です。

 みなさまは、正月三が日、どのようにお過ごしでしたでしょうか。わたしは、箱根駅伝の合間を縫って(合間って?)、藤崎宮に初詣に行きました(2日)。

Cimg1874  元日が寒かったことと、二日に多くのお店で初売りを行うとのことで、人出が少しだけ多かったと思います。妻と娘は着物だったので、少し、目立っていました。

 ところで、本年は松本清張生誕100年であることを、元日の新聞広告で知りました。松本清張の本、これまた読んだことがないのですが、驚いたことは、なんと太宰治と生年が同じ(というわけで、太宰治も生誕100年)であるということです。これ、新潮文庫の広告で知りました。へえ~、という感じです。太宰治は昭和初期の作家、松本清張は結構最近まで活躍されていたので、生年が同じとは思いませんでした。松本清張がデビューしたのは、太宰治が39歳で入水自殺をした1948(昭和23)年より後の1950(昭和25)年とのことですから、わたしの感覚はここに原因があるのでしょう。

 というわけで、早速、自宅近くのブックオフで松本清張の本をいくつか購入し、とりあえず出世作といえるであろう『点と線』(1958年)を読みました。

 いままでなんで読んでこなかったのだろうと思うくらい、卓抜した文章力に裏打ちされた推理小説でした。またまた内容は読んでもらうことにして(そもそも推理小説を紹介するのは難しいですよね~)、わたしが感じたことを。

 1.平野謙さんが「解説」を寄せていますが、完璧と思えた清張の本にも欠陥があること、そして、それに気づく人がいることに驚きました。

 2.わたしの知り合いにも「時刻表派」の「鉄ちゃん」がいるのですが、少しその方々の気持ちがわかりました。

 このような面白い本ばかり読んでいたいところですが、それでは生活できないので、ほどほどにしようと思いました。

2008年12月30日 (火)

反貧困

 仕事納めをしつつ、読書もしました。

 読んだ本は、湯浅 誠さんの『反貧困』(岩波新書、2008年)です。

 あるときの昼食時、この本が話題となり、そういえば生協にあったなぁ~、と思って購入しておいたものです。このところ湯浅さんがTVによく映っているので、読んでおこうと思いました。ちなみにこの本は、今年の大佛次郎論壇賞を受賞されました。(「だいぶつ」ではなく「おさらぎ・じろう」と読みます。念のため)。

 またまた内容は読んでもらうことにして、わたしが一番関心をもったのは、生活保護費のことです。生活保護費が上がるとか下がるとかいうことは、当該保護を受けている人には関係するけれども、その他の多くの人には関係ない(そして、いまのところわたしにも関係ない)と思っていました。ところが違うのですね。恥ずかしながら、知りませんでした。『反貧困』には、他のものから引用するかたちで、つぎのようにあります。

 「たとえば、就学援助。2005年で公立小中学校に通う子どもたちの13%に当たる138万人が受けている就学援助は、多くの自治体で受給資格を「収入が生活保護基準の1.3倍まで」という形で設定している。また、地方税の非課税基準も「生活保護基準を下回らないように設定されることが法律上明記されている」。(中略。原文改行)「生活保護基準が下がれば、連動して住民税非課税基準額が下がることは確実である。(中略)住民税非課税を施策の対象者としている福祉施策は広範に存在するし、非課税が課税になれば、税制転用方式、たとえば地方税の課税額によって利用料や負担金を決めいているすべての制度、すなわち国民健康保険料や保育料、介護保険料などが上昇する。ここでも広範な影響・被害が発生する」(188-189頁。算用数字に改めました)。

 (引用元は、吉永純「生活保護基準切り下げは、国民生活に重大な影響」『法と民主主義』424号(2007年)です。あまり手にしない雑誌なので、勉強になりました)。

 生活保護基準の引き下げは、国民生活の多くの場面で、影響があるのですね。また、湯浅さんは、そもそもこの「最低生活費としての生活保護基準」が一体いくらなのか、国民があまりにも知らなさ過ぎている、ともいいます。この「最低保護費としての生活保護基準」は、住んでいる場所や家族構成によっても異なるのですが、たしかにこれを知っている人は少ないのでは、と思います。またまた恥ずかしながら、わたしも知りません。そこで、この簡易計算ができる、湯浅さんが事務局長をしている「NPO法人自立生活サポートセンター・もやい」のHPで計算してみたところ、わが家の生活保護費は165,110円でした。やっぱり、少ないですよね。

 ただ、このHPにあるように、これが「国が憲法25条にもとづいて保障している金額です」。この言葉、重い言葉に響きました。

 この年の暮れは、非正規雇用の方の雇用・生活の問題が、連日連夜、報道されています。新卒者の雇用も、厳しくなりそうです。みさなんにとって(そしてわが家にとっても)来る年がよいものであるとよいのですが。

2008年12月24日 (水)

昭和史 戦後篇

 曇り、のち、小雨。ホワイトクリスマスにはならず(それは、ちょっと無理か)。

 年賀状書きにも少し飽きたので、読みかけていた半藤一利『昭和史 戦後篇』(平凡社、2006年)を読みました。

 戦後の昭和史を一気に読めるので、お薦めの一冊です。内容は読んでもらうことにして、わたしの注目したところを書き留めておきます。

 まず、言論活動を暴力で封じ込めようとすることが時に起こっていますが、半藤さんは「暴力のもとにジャーナリズムは必ずしも強くない」(478頁)と言います。そうだろうと思います。ジャーナリストだって人の子。強がってばかりはいられないでしょう。また、時流に沿わざるをえないこともあるのでしょう。半藤さんは、つぎのように言います。「戦前、軍の暴力のもとにジャーナリズムがまったく弱かったのと同様で、それは残念ながら、しっかりと認識しておかなくてはいけません。表現の自由を断固たる態度で守らなければならないというのはその通りですが、断固たる態度を必ずしもとれないところがジャーナリズムにはある・・・」(同頁)と続けています。

 それから、戦後の法制度改正の面で、「民法を変えさせたのは日本の国柄が変わるのに非常に大きな影響を与え、それはいい影響ばかりではなく悪い影響もたくさんあったのではないか」(536頁)とありました。これはGHQの指令を受けての民主的また平等主義のもとでの新民法のことをいうのでしょうが、ちょっとピンときません。ここで言われている「国柄」とは、必ずしも Constitution と同義ではないかもしれませんが、ちょっと気になる記述です。“新民法の制定と新憲法のもとでの国制”というのは、重要な研究テーマかもしれません。

 最後に、昨日は今上天皇の誕生日で、75歳になられたようです。そのことと関連して目についたのが、昭和天皇が亡くなられた年(1989年、平成元年)の12月29日に、戦後一貫して軽軍備のもとで経済大国を目指してきた日本が「最高に輝ける日を迎え」たとあります(551頁)。東京証券取引所の平均株価が38,915円の最高値を記録したのが、この日のようです。半藤さんは「もう永遠に出てこないであろう史上最高値です」と言い切っています。昨今の経済状況、非正規雇用の問題を想起するまでもなく、この平成20年間はなんだったのかなぁ~、と物思いにふけった読後感でした。

 インフルエンザの方は、タミフルのおかげで、驚異の回復を見せています。

2008年12月15日 (月)

国籍法違憲訴訟

 晴れました。研究室のある建物の耐震補強工事が進んでいて、ちょっと、勉強する環境ではなくなっています。

 そんななか、本日の大学院演習の準備として、ジュリスト1366号(2008年11月1日号)の特集2「国籍法違憲訴訟最高裁大法廷判決」を読みました。

 お題は、生後認知子の国籍取得要件として準正要件を課している国籍法3条1項の規定が憲法14条1項に違反するとされた、平成20年6月4日の最高裁大法廷判決の分析です。この事例については、すでに多くの評釈が存在し、また、各地の研究会でも報告されていましたので、ジュリストは、確認の意味で読みました。

 ジュリストには、憲法学者×国際法学者×民法学者による座談会と(座談会という「自由さ」ゆえ、ウォッと感じる発言もあります)、憲法学者、国際私法学者、それに前最高裁調査官による評釈が掲載されています。

 このなかで、管見の限りではその他の評釈では触れられてはいなくて、わたしが気になっていた、下記の2点について取り上げていた前最高裁調査官の手による評釈が目に留まりました。その2点というのは、つぎのものです。

 ①国籍取得について父系血統主義を採用していた昭和59年改正前国籍法下での国籍確認請求について、それを退けた東京高裁昭和57・6・23判時1045号78頁と本件の整合性。

 ②最1判平成14・1・31民集56巻1号246頁が、児童扶養手当法施行令1条の2第3号の「母が婚姻(婚姻の届出をしていないが事実上婚姻関係と同様の事情にある場合を含む。)によらないで懐胎した児童(父から認知された児童を除く。)」という規定のうち「(父から認知された児童を除く。)」という部分について違法無効であると判断し、児童扶養手当受給資格喪失処分を取り消した思考法と本件思考法(とくに原告救済手法に関する)の関係。

 今学期のわたしの大学院演習を受講している方は、比較的勉強時間の融通のきく方のようで、よく勉強されてきているので、どのような視点から本件を分析するのか楽しみです。

 あと数時間、諸雑務をこなしつつ、講義時間を待つことにします。

2008年12月 1日 (月)

ディジタル著作権

 陽が差しています。よい天気となるでしょう。

 もう12月になってしまいました。早いもので、今年もあと1か月。どうしますか皆様。

 この週末には勤務校で推薦入試が実施されました。そういえば、センター試験まで、あと1か月半ぐらいしかありませんね。

 気ぜわしい中、名和小太郎『ディジタル著作権:二重基準の時代へ』(みすず書房、2004年)を読みました。

 本書の「はじめに」に、著者の現行著作権制度に対する危惧が示されています。いわく、

 「現在の著作権法は、ディジタル技術の発達によって、権利者と著作物のあり方が多様化したために、きわめて精緻なものになってしまった。言い換えれば、冷めたスパゲッティ、あるいは使い古したコンピュータ・プログラムのように縺れてしまった」。

 「精緻になったことにより、現行の著作権法は一握りの法律家、企業法務担当者にしか理解できないものになった。密室化してしまった。これにともなって、著作権制度はレイパーソンつまり俗人には理解を絶するものになった」。

 「この俗人が、現在、意識するしないにかかわらず、その著作権法にコントロールされるようになった。なぜならば、現代の知的生活は、それが職業的なものであれ趣味的なものであれ、著作権ビジネスと絡むようになり、その著作権管理システムの監視下に置かれるようになったからである」。

 わたしの感覚では、専門家でも現行著作権管理システムを全体的に把握されている方は、少ないのではないでしょうか。ただ、わたしが小・中学校生活を送っていた当時と比べれば、それでも一般の人の著作権保護意識は、相当程度に高まっているのではないでしょうか。もっとも、これは表現行為を委縮につながっているとも思いますが・・・。

 というわけで、またまた新しい週がはじまってしまいました。今週も、みなさま(と、わたし)に、幸多きことをお祈り申し上げます。

2008年11月27日 (木)

昭和史 1926→1945

 くもっています。午後から雨の予報です。

 先日、大学院の後輩から「近現代史についてのよい本を紹介して」とのメールをもらいました。ところが、わたしは、恥ずかしながら近現代史については、無知です。憲法を教えていながらそれでよいのか・・・とも思いますが、そこはとりあえず括弧に入れて、思いつく先生の名前を適当に知らせてしまいました。

 メールを送った後、生協の書籍部にいくと、半藤一利『昭和史1926→1945』、『昭和史 戦後篇』(平凡社、2004年)という2冊の本が目につきました。そういえば、この著者のものがあったなぁ、と思いだし購入しました。

 この1週間は、一日のうち必ずどこかに会議が入っており、まとまった勉強時間がとれていませんでした。時間がないわけではないのですが、思考が会議で分断されるとよくないと(という言い訳のもと)、半藤『昭和史』の読書をしました(本日も、これからある選挙に類似したものの不在者投票の立会人をしなければなりません。説明するには複雑なので割愛します。国立大学法人の学長選考手続にあるあの調査のことです)。

 この本は、ある編集者の願いに応じる形で著者がした講義がもとになっているようです。大部の本ですが、そのわりには読みやすくなっているのも、文体が講義調だからだと思います。昭和史のなかでも「戦前史」を扱っているもので、内容も、史実に基づいている部分と著者の想像の部分(といっても空想ではない)とが明確に区別されていて、信頼できる歴史の見方のように感じました。

 著者は、最後のまとめのところで、つぎのように言います。

 「昭和史は、日露戦争の遺産を受けて、満州を日本の国防の最前線として領土にしようとしたところからスタートしました。最終的にはその満州にソ連軍が攻め込んできて、明治維新このかた日露戦争まで四十年かかって築いてきた大日本帝国を、日露戦争後の四十年で滅ぼしてしまう、・・・昭和史とは、なんと無残にして徒労な時代であったかということになるわけです。きびしく言えば、日露戦争直前の、いや日清戦争前の日本に戻った、つまり五十年の営々辛苦は無に帰したのです。昭和史とは、その無になるための過程であったといえるようです」(496頁)。

 この本を読むと、著者のこの言葉が身にしみます。著者は「根拠なき自信過信に陥っていた」と表現してしますが、当時の政治的指導者、軍事的指導者が、いかに近代的・合理的でなかったのか、国際情勢や諜報活動に疎かったのか。批判しても詮方なきことですが、ちょっと、がっかりもします。

 講義の合間に読み進めているので、まだ1冊目しか読めていませんが、著者が戦後史をどう語るのか。興味がわきました。

2008年11月19日 (水)

太郎が恋をする頃までには・・・

 冷え込んできました。阿蘇には昨日、雪が降ったようです。

 本日は午後、教授会があります。ということで、朝からあまり調子がでないので、新聞広告をみて途中まで読んであった、栗原美知子さんの『太郎が恋をする頃までには・・・』(幻冬社、2008年)の続きを読みました。

 主人公は、被差別部落出身のハジメとその結婚相手。これは、作者の私小説でもあります。差別の壮絶な経験を話すハジメと、それを全身で受け止めようとする作者。二人はわかりあえているのですが、でも・・・。

 わたしの陳腐な言葉ではこの小説の全容を紹介することなできません。断念します。この本は、凄い本だと思います。後頭部を鈍器で打たれた感じと、大きな虚脱感。これがわたしの読後感です。学問の無力さを感じます。

 この本の最後に紹介されている本のうち、角岡伸彦さんの『はいじめての部落差別』(文春新書)は、わたしも読んだことがります(以前、ブログでも紹介しました)。ただ、島崎藤村の『破戒』。内容は知っています。栗原さんの本を読みながら、藤村の『破戒』も読んだかな?・・・と記憶をたどっても、はっきりと覚えていません。本棚をもてももっていないところを見ると、読んだ気になっているだけで、きっと読んだことがないのでしょう。その内容は、国語の時間とか文学史のなかで、聞いただけなのでしょう。

 最近、若い頃にもっと読書しておけばなぁ~と感じています。大学生のときには、岩波文庫を買い込んで、少しは小説を読んだのですが。高校のときには赤川次郎さんばっかりでしたから・・・。

 こう思うようになったというのは、年をとった証拠なのでしょうか。

2008年11月14日 (金)

21世紀図書館

 少し雲がかかっていますが、それでも晴れの部類でしょう。

 来週の講義準備の合間に、評論家・立花隆さんと起訴休職外務事務官で作家の佐藤優さんとの間で行われた討論「21世紀図書館 ― 必読の教養書二百冊」(文藝春秋12月号)を読みました。

 それぞれ100冊ずつ、教養書としての必読書を上げ、その選定理由を中心に興味深い討論がなされています。合計200冊のなかでわたしが読んだことがあるものはあまりなかったのですが、それでも立花隆さんがロールズ『正義論』をあげていたのをみて、これは読んだことがある(笑)と思ったりしました。

 具体的な書籍のリストは現物を見てもらうことにして、討論のなかで気になったフレーズについて。それは、読書をすることの重要性を説く中でのことです。

 佐藤さんは、田邊元の『歴史的現実』(こぶし書房)を必読書にあげているのですが、それは、立花さんが「個人の生命は有限であるが、大義のために死ねば永遠に生きる、ということを説いた本ですね。ある意味で大東亜戦争のイデオローグになった。」(164頁)と評する本です。でもなぜ佐藤さんはそれを必読書としてあげているのでしょうか。佐藤さんは、立花さんの発言に続いて、以下のようにいいます。

 「そうです。目で追って読めば論理は相当怪しいのですが、声に出して読むと今の我々が読んでも『ああ、やっぱり悠久の大義のために命を差し出したい』と身体が反応するんですね。田邊元が京都帝国大学で昭和十四年に行った六回の講演をまとめたものですが、当時の京大生は、田邊の声を直接聞くことで『これだ』と直感し、本を携えて特攻機に乗っていったわけです。ですから、音の世界、声の世界に騙されないようにする、読書による知的トレーニングは現代でも必要ではないかと思いました。」(164頁)

 同じページにはこれも佐藤さんの発言のなかに、毛沢東も本を読めば人間は愚劣になるという論文を書いて、中国における読書文化を立ち、思考する脳回路を停止させようとした、ということが述べられています。

 大学における講義もこのことがあてはまると思います。ある説によると、講義の内容を自分で勉強しようとすると、その3倍の時間がかかるといいます。だから講義は効率的に学習できる有意なものだ、ということなのですが、ただ、自分で読書するなかで、効率的ではないけれども、自分の頭で納得できるまで学習するということも重要ななのではないでしょうか。あるテーマ、事例について、自分はどのように理解したのか。判例について、先生は・・・・と解説しているけど、実際に判決文を読んでみて、自分の理解を構築してみる。それは稚拙でもよいと思います。自分にはどう読めるのか、ということを実践するなかで、豊かな思考力は身についていくのでしょう。

 と偉そうにいいますが、はたして自分はどうかといえば、これは心もとないです。とくに学生時代にそんなことをしたかといえば・・・・。また、大学で教える身でありながら、講義の効用に懐疑的だなんて・・・・。

 だんだんとりとめもなくなってきましたので、また講義の準備に戻ります。

2008年11月 5日 (水)

新・近代立憲主義を読み直す

 まずまずの晴です。少し身体を動かすと汗ばみます。

 昨日の学園祭休みを利用して、わが師の本『新・近代立憲主義を読み直す』(成文堂、2008年)を読みました。

 本書の前半(第Ⅰ部)は、近代啓蒙思想批判にあてられています。

 J・ロックやJ・ルソーに代表される近代啓蒙思想は、個人の合理的・理性的自由意思に基づく国家樹立を説いてきました。この思考法がわが国の憲法学に与えている影響は絶大です。これに対して、D・ヒュームやA・スミスに代表される伝統主義は、日常生活に従事する市井の人びとの相互承認のなかから徐々に規範が生成され、その規範のエンフォースを確保するのが国家の役割であると説きました。本書は、後者の思考法の上に、新しい国制論を展開するものです。

 第Ⅱ部は、立憲主義思想にとってときにその典型例とされるフランス革命・フランス人権宣言批判にあてられています。

 この議論を展開するにあたり本書が重視したのは、G・ヘーゲルによるフランス革命の見方でした。ヘーゲルは革命期こそ「新しい世界」の到来を賞賛しましたが、のちに、革命思想の空虚さをつぎつぎと明らかにしていきます。とくに自然権的権利の抽象性を否定して、ヘーゲルは、権利は市民社会のなかで生まれ、国家という実体に支えられてはじめて有意となることを説きました。自然権というのは、制度的支えを持たない空虚な権利である、というのです。わが国におけるヘーゲルは、マルクス(主義)の影響を受け、相当なバイアスのもとで理解されてきてしまっているようです。

 わが師が本書の初版刊行を準備していた当時、わたしは院生・助手(←懐かしい響き)としてその近くにいました。師の謦咳を接しながらわたしも本書執筆のために参照された同じ書物を読みましたが、理解度には雲泥の差がありました。昨日、今日と、この本を読み返してみて、その差はまだまだ少しも縮まっていないように感じます。

 学問の道は険しくで遠いことを思い知った学祭休みでした。

 ところで、この学祭期間中は、放送大学で講義をしました。学生のほとんどが社会人ということもあって、実に真剣な講義態度でした。久しぶりに緊張感のある講義になりました。教員を育てるのは学生であることを実感しました。

2008年10月28日 (火)

裁判員制度

 今日は晴れます。朝晩、寒くなってきましたが、お変わりありませんか。

 講義こそ少ないのですが、今週もなんやかやとあって、また週末には放送大学の仕事もあって、自由な時間がとれません。

 そんななかで先週末から、現代思想2008年10月号「特集・裁判員制度:死刑を下すのは誰か」に掲載されている対談、諸論稿を読みました。

 巻頭の安田好弘弁護士と『死刑』の著者である作家の森達也さんとの対談、つづく2・3本の論稿は、裁判員制度や司法への市民参加をテーマとするものでしたが、特集の後半に行くにつれ、犯罪論や刑罰論、そして監視社会論などがテーマとされていました。

 雑誌・現代思想らしい切り口で裁判員制度や刑罰論を論じていて、興味深い内容でした。法制度とその問題点を論じた「裁判員制度解説本」に飽きた方には、お勧めの本です。

 最近、現代思想を読むことが多く、そこではJ・デリダの分析がはやっています。デリダ=脱構築ということは知っていますが、デリダの思想を詳しく知らないわたしには、勉強不足を感じる読書となりました。

 本日は、夕暮れ時から般教の委員会があります。今日は何が飛び出すやら。あーあ。

2008年10月16日 (木)

大学の困難

 2日連続の秋晴れ。

 昨夜は同僚先生の昇進祝いの会に出席しました。会場は熊本市練兵町にある「うまいもの家 萬○」でした。 萬○

 ファカルティの「若手」(!?)の会だったので、毒っぽい意見が飛び交っていました(以下、自粛・・・)。同僚先生の昇進祝いという目出度い会でしたが、まぁ、集まって飲めればなんでもいいのでしょうね。気乗りのしない飲み会もあるようですし・・・(以下、自粛)。

 あまり浮かれてばかりいれないので、先週末の学会出張中に読んだ本を紹介します。

 青土社が刊行している「現代思想」の2008年9月号の特集は「大学の困難」でした。国立大学法人化後の大学の変容ぶりが、とくに人文科学系学問の衰退状況を中心に、まとめられています。効率化計数に苦しめられている国立大学に身をおく者として、少し気になる内容だったので、学会の行き帰りの行程でざっと読みました。

 大学に勤めていながらそもそも大学論や大学組織、学内行政に疎いわたしには、あまりピント来ない部分もありました。ただ、ジャック・デリダやM・ラッツァラートの言説を引きながら述べられている大学論は、読み物として、面白かったと思います。先進国首脳会議(G8)と同時に開催されたG8大学サミットに対抗して「G8対抗国際フォーラム」なる会合が開催されていたことなど、大学とはなにか、大学はなにをなすべきか、これらのことを今後考えていく切っ掛けにはなったと思います。

2008年10月 6日 (月)

赤紙

 曇り。少し蒸し暑し。

 新しい週のはじまり。講義と会議があるため、少し、気が重い1日です。

 先週末に読んだ本です。小澤眞人+NHK取材班による『赤紙:男たちはこうして戦場に送られた』(創元社、1997年)。

 なにかのTV番組で富山のどこかの村に本来なら廃棄処分になっているはずの「赤紙」(召集令状)が保管されているという報に触れて以来、気になっていたのですが、つい最近、本屋さんでそれに関する本を見つけたので読んでみました。

 太平洋戦争にはいろいろな分析・検討が行われていますが、本書は、国家総動員態勢を支えた、徴兵システムの全容を現在可能な限りの取材をもとに明らかにしようとした注目すべき本だと思います。

 往時の総力戦構想を取材する中で、本書は、当時の国民の姿をつぎのように記述しています。「戦争遂行という国家的な大事業に際し、すべての国民は必要な社会的な役割を与えられた。有限の資源の最大効率の達成のため、人の存在は数値に還元され、分類され、統一的な運営の対象となった。すべての人をむだなく利用する上で、個人の属性は単に技術や資格、健康程度でしかなかったのだ。そこには国民一人一人の顔は見えてこない」(191頁)。

 すべての国民は、戦争遂行のために、必要とされていた。ただ、それは軍隊組織の歯車の一部として必要とされていただけで、特定の個人として、その存在自体に価値を見出されていたわけではないということでしょうか。残された家族にとってはかけがえのない人であったとしても。

 また、本書のエピローグでは、以下のような警鐘が鳴らされています。「現在の日本は、世界的にも有数の軍隊をもっている。実際に戦争となれば、兵士をどう調達し訓練するのか、武器や資材の生産体制をどうするのか、きわめて現実的な問題に直面する。戦争に備えて、国家が平時からどのような準備をするのか、それはかつての日本が敷いた軍動員、軍需動員の制度と大きく違わないだろうことが想像できる。ここで、参謀本部で毎年膨大な作業を費やして作られていた年度動員計画が、平時において、戦時への対応と準備のために作られていたことを思い出していただきたい。(原文改行)元参謀の話から明らかだが、軍事専門家の認識では、軍隊のあるところには何らかの動員制度に近い準備制度が、平和な時代から継続して必要だと考えられているのである。平和憲法をもつ日本としても、実質的には軍隊が存在している以上、例外ではなさそうである」(319~320頁)。

 みなさんは、どのように考えますか。それにしても、玉音放送直後に大本営から出された「軍の機密に関わる一切の資料を焼却せよ」という秘密裡の指令に抗して「赤紙」の保存、整理に尽力した人がいたお陰で、後世がこの書物に接することができたこと。このことは非常に意義のあることのように思います。

2008年9月29日 (月)

平等ゲーム

 本格的な雨の一日です。

 英文を少し読んで、締切の近い原稿に少し手をいれて、あとは読書です。今日の本は、『県庁の星』の作者・桂望実さんの最新作『平等ゲーム』(幻冬舎、2008年)です。

 ひと言でいってこの本、面白かったです。一気に読み終えました。

 社会科学的に興味があり購入したのですが、小説として面白い作品でした。場面は、仕事は4年ごとに抽選で割り当てられ交代する、収入は島民に平等に分配される、すべては島民の投票で決定する、そんな「理想社会」。このような社会ははたしてパラダイス、ユートピアなのでしょうか。

 そのなかで生まれ育った主人公の芦田耕太郎。彼には嫉妬心や向上心のようなものに欠けているようです。でもふとしたことから彼の描いたスケッチが認められ、仕事(どんな仕事かは本を読んでください)で乗船した客船で、肖像画を作成を依頼されます。その依頼者に喜んでもらうことで達成感を感じ、絵の先生に無断で応募されたコンテストに落選することで嫉妬心のようなものを感じます。嫉妬心という人間らしい感情を記述することは難しいと思うのですが、ゴタゴタと書き連ねるのではなく、さらりと扱っているところが、またこの小説の良さだと思います。

 さて、気になるのは、すべてが平等というあの「理想社会」の行く末でしょう。が、この辺も読んでもらうしかありません。

 この本は、場面展開の鮮やかさ、登場する人物像の巧みさ、その言葉の趣深さなとが相俟って、よくできた小説だと思います。もちろん素人評にすぎませんが、作者の力量の豊かさを感じる小説でした。

2008年9月24日 (水)

憲法と民法

 雲は厚いのですが、太陽も出ています。今日は、金属学会(?)が開催されています。スーツの先生方は暑そうです。

 昨日は祝日でしたが、熊本クレアにいっただけで、遠出はしませんでした。最近は出不精で、どこにもいっていません。

 そんなわけで、自宅で、法学セミナー2008年10月号の特集「憲法と民法」を読みました。

 「対立か協働か 両者の関係を問い直す」という刺激的な副題をもつこの特集、お馴染みの基本権の私人間効力論や表現の自由と不法行為の関係だけでなく、法と経済学の視点から民法と憲法を考えるもの(森田果先生)、「自由」の概念を義務履行の可能性から探るもの(蟻川恒正先生)などがあり、一気に読み切ることができました。

 勤務校では1年生の前期に憲法の基本権論を後期に民法の総則部分を配当しているので、もっと民法との関係を意識して講義をすればよかったように思いますが、きっとその余裕はなかったでしょうから、どうか興味をもった方は、法セミを読んでみてください。

 さらに、民法と憲法の関係については、法学教室が1994年12月号(171号)で、法律時報が2004年2月号(76巻2号、940号)でそれぞれ特集しています。余力がある方はこっちも一読されることをお勧めします。

2008年9月22日 (月)

本棚 2

 おはようございます。よく晴れそうです。今日はこれから午前中に1つ、午後に1つ、会議があります。午後の会議は、事務局の大会議室という行ったことのない場所で行われます。

 これ、昨日の夜中に読みました。他人の本棚を除くのは、わたしにとって興味深いことです。このヒヨコ舎編『本棚2』(アスペクト、2008年)は、そんな人の欲求を満たしてくれる写真集です。本棚の主のインタビュー記事と同時に、その人の本棚の雰囲気と読書傾向を看取することができます。『本棚』(1、ということになるでしょう)ももっているのですが、こっちも暇なときに見たいと思います。

 Cimg1691 ところで、昨日は、託麻原本通り沿い、渡鹿2丁目にあるケーキ屋さんに行きました。ボーン・ヌフというこのお店は、この界隈では評判のよいお店です。はじめて行きましたが、正確な仕事で費用対効果のよいケーキを販売していると思います(ほとんどのケーキが315円です)。(〝たくま〟の字、読者の指摘を受けなおしました。ご指摘、ありがとうございました)。

2008年9月20日 (土)

フロイト先生のウソ

 昨日、今日と、夏のような日差しです。

 夏休みも、もう終わったも同然の今日この頃、気持ちは少しブルーです。そんななかで、ロルフ・デーゲン『フロイト先生のウソ』(文春文庫、2003年)を読みました。

 本書は「心理療法にはおまじない以上の効き目はない」(訳者あとがき)ことを述べる「心理療法で精神障害やノイローゼは治せる?」からはじまり、心理学の常識に、実証的研究にもとづく異論を提示していきます。

 そして、「幼児期のトラウマはその人を一生傷つける?」、テレビの「暴力シーンは暴力行為を誘発する?」、「選挙予想の公表が選挙結果を左右する?」(いわゆるアナウンスメント効果)、「教師の期待が生徒を伸ばす?」(いわゆるピグマリオン効果)、「無意識の領域が人間の行動を操っている?」(フロイトの有名な言説)など、巷、ほぼそのように考えられている心理学的常識に、ことごとく否定的見解で応答しています。実証的研究では、そのような結果が得られない。著者の主張はこの一点にあります。

 「長男と次男とで性格がわかれる?」、「子どもにクラシックを聞かせると頭が良くなる?」とか「奇跡の語学習得法『スーパーラーニング』?」などの怪しげなものはさておいても、前段落にあるようなある種「常識的」に思われてきたものも、実証的には証明が難しいようです。もちろん、著者の主張も、ある意味では一面的だと思います。ただ、もっともらしいことには常に疑いの目で検証しなければならないことを、痛感させられた一冊でした。

 昨日は、同僚のT先生、O先生、Y先生と、タコを食べに出かけました。なぜタコなのか、いまいちわかりませんが、まぁ、誘ってもらえて光栄でした。

2008年9月10日 (水)

熊本県の歴史

 よく晴れた日が続いています。でも、なんだか台風も近づいている模様。

 9月になり、徐々にですが、学務も入ってきました。夏休みも後半というところでしょうか。

 そんななかで、ふと書棚にあった『熊本県の歴史』(山川出版社、1999年)を読みました。

 熊本の歴史が古代から書き上げられていて興味深い本でした。

 以前から疑問に思っていた加藤氏から細川氏への藩主交替事情(加藤氏が徳川家光暗殺計画にかかわっていたとされたことが原因で、当時小倉城主だった細川氏が肥後に転封してきた)や、熊本市内の現在の地名の由来となる熊本城下町の建設事情などが記載されていました。

 西南戦争時に消失してしまい、近時、復元がなった熊本城の天守閣の焼失エピソードには2説あること(熊本鎮台が自ら焼き払ったというものと、薩摩軍のスパイによる放火であるとするもの)など、上述の加藤・細川の交代劇とあわせて、まだまだかいめいされていない真実も、多々あるようです。

 また、ペルーの元大統領フジモリさんの父親・藤森直一さんは、熊本市の出身なのですね。この本ではじめて知りました。

 古代・中世・近世の記述に比べて熊本の近代・現代についての記述が薄いのですが、これについては、姉妹編の『熊本県の百年』を読めとあるので、いずれ読んでみたいと思います。

 

2008年9月 1日 (月)

続獄窓記

 9月に入りました。まだまだ秋の気配とまでは行きませんが、それでも厳しい残暑というわけでもないような・・・。

 先週までの長期休暇中には、山本譲司さんの『続獄窓記』(ポプラ社、2008年)も読みました。

 山本譲司さんの本は、秘書給与詐欺事件で有罪判決を受け黒羽刑務所に服役した経験をもとに、とくに刑務所には精神疾患・知的障害をもつ受刑者が多数いる現状を克明に記した『獄窓記』(ポプラ社、2003年)、『累犯障害者:獄の中の不条理』(新潮社、2006年)と読んできました。今回の本には、『獄窓記』を執筆・出版するに至った背景や『獄窓記』でもっとも訴えたかったこと、そして『獄窓記』出版後の山本さんの活動などが記されています。

 いままでの受刑者処遇は、精神疾患・知的障害をもつ受刑者に対して、あまりにむ無策だった。そのような受刑者が刑務所内にも多数いること、およびその処遇について、そもそも公にされてこなかったこと。前作『獄窓記』では、こういった問題点を、経験談をもとに記したものでした。『続獄窓記』は、ではどのようにこれを改善していけばよいのか。とくに作者は、この問題にどのように向き合おうとしているのか、そして向き合ってきているのか。これらの訴えおよび体験記が、現在進行形の形で記されています。

 障害をもつ受刑者の処遇の問題を福祉の問題として構成し直そうとする山本さんの今後の活動にも注目されます。

2008年8月30日 (土)

事象そのものへ!

 明け方の強い雨も、随分と小降りになりました。これから晴れるのでしょうか。

 長期休暇中にはいくつか本を読みました。そのうちの一冊、池田晶子『事象そのものへ!』(法蔵館、1991年)を紹介します。

 池田晶子さんは「哲学エッセイ」という分野の草分けといえる作家でしょう。池田さんのご本、わたしは好きなのですが、あまり通して読んだことはありません。これから少しずつでも暇なときに読もうと思い、書棚にあったこの本を手にしました。

 池田さんの「哲学エッセイ」は大変、読みやすいものですが、この本は、少しだけ専門的なものです。とくに禅宗や仏教、それにキリスト教の宗教的エートスを素材にした章節は、読み応えのあるものでした。「暇つぶし」に読める本ではありませんでした。

 ちなみわたしが所蔵しているこの本、前任校の図書館が廃棄処分にしたものを段ボール箱のなかから拾い出したものです。よい「拾い物」をしたと思います。

 今日は折角、朝から学校に来たのに、この後、午前中いっぱいは停電&断水です。そういえばそのメール、見たことありました。毎日たくさんのメールが来すぎて、重要なものとそうでないものの選別感覚が麻痺していました。あ~あ。

2008年8月18日 (月)

時が滲む朝

 雲の隙間から、ときどき陽光が差しています。

 帰省の車中で、第139回(平成20年度上半期)芥川賞受賞作、楊逸さんの『時が滲む朝』(文藝春秋2008年9月号掲載)を読みました。

 わたしに文学を論じる力量はありませんが、この作品の受賞には、賛否両論があるようです。この小説は、主人公の人生を左右する政治の不条理さ、無慈悲さというものを描いたものだと思いますが、審査員のひとりである石原慎太郎さんがいうように、そいった「根源的な主題についての書き込みが乏し」いとも感じます。

 ただ、同じく審査員である池澤夏樹さんの選評にあるように「芥川賞は新人賞である。優れた短篇を選び出して顕彰し、その書き手の将来に期待する。……授賞は、この人が書くものを我々はもっと読みたいという意思の表明である。」ということろが、楊さんの授賞理由でしょうか。

 電車のなかで、ウツラウツラしながら読んだので、いずれ機会があれば読み返してみようと思います。

2008年8月11日 (月)

戸棚の奥のソクラテス

 またまた暑い一日です。帰省先でこのブログをお読みの方も(いるわけないか)。

 それにしても北島さんはすごいですね~。100メートル平泳ぎの決勝があった本日の話題は、これ一色でしょう。

 というわけで、オリンピック観戦の合間を縫うように、ルーシー・エア『戸棚の奥のソクラテス』(集英社、2008年)を読みました。

 〈哲学は人生をよりよいものにできるか〉。このことを肯定するソクラテスと、人生の意味とか善とは何かという「語り得ないものには沈黙しなければならない」という態度を示すウィトゲンシュタインが哲学者の死後の世界「イデアの世界」の総裁の座をめぐって展開する哲学ファンタジーです。

 哲学ファンタジーといえば、ヨースタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』(日本放送出版協会)が有名ですが、二匹目のドジョウとなるでしょうか。

 主人公は高校生のベン。ソクラテスとヴィトゲンシュタインの争いのケース・スタディとして「イデアの世界」につれて来られて、そこでさまざまな哲学問答を体験します。はたして、哲学は人生をよりよいものにできるのでしょうか。

 栗木さつきさんの「訳者あとがき」にある哲学問答の例はつぎのものです。

 「きょうのきみと、きのうのきみとは、おなじ人間?」(5年だてば、人間のほとんどの細胞は入れ替わるようです)。

 「脳を移植したら、〝ぼく〟はどこに行ってしまうんだろう」(ある人と脳を交換したら、〝ぼく〟は、脳を移植した先にあるのでしょうか、それとも、もとの身体にあるのでしょうか。でも脳は違う人のもの・・・)

 「ひとりの命を犠牲にしても、大勢の人の命を救うほうがいいのだろうか?」(生命倫理で最初に聞かれる問題ですね)

 この他に、わたしが気になった哲学問答として、

 ・チップスの味のような個人的感覚について、人と比べることができるか。

 ・現実と夢の区別はできるか。覚醒していると思っている今が、なぜ夢ではないといえるか。→感覚は存在する。世界は感覚を通した経験としてなら存在する。しかし、五感に信頼はおけるのであろうか。五感はときにわたしたちを騙すのでは?(懐疑主義)

 ・心は脳そのものか。それとも心には脳を超えたはたらきがあるか。→思考は特別な精神活動なのか(心と身体は異なるという二元論)。それとも魂とて物質か(万物は物質でできているとする唯物論)。

 ・感覚の背後に因果関係が隠れている。→自由意志による決定など存在しない。人間の行為の原因は自らにない(決定論)。

 ベンも夏休みに「イデアの世界」に連れて行かれる設定です。ちょうど夏休み。このブログをお読みのみなさんも、ベンと一緒に、哲学体験をされてはいかがですか。

2008年8月 9日 (土)

シュミットとシュトラウス

 土曜だというのに、炎天下です(関係ないか)。

 昨日、北京オリンピックの開会式がありました。オリンピックが始まると、4年前を思い出し、それと同時に4年後を想像しますよね。とくに4年後が気になりますよね。みなさんの4年後は、どのような人生でしょうね(気が早いか!)。

 オリンピック・ムードで勉強どころではありませんが、それでも、ハインリヒ・マイアー『シュミットとシュトラウス』(法政大学出版局、1993年)を読みました。

 この本をもっていないので、図書館から借り出していたのですが、なんやかやと読む時間がなく、ようやく一通り読むことができました。

 本書は、カール・シュミット『政治的なものの概念』についてのレオ・シュトラウスによる批判的分析とそれに対するシュミットの対応を、マイアーが「文献学的に実証」(訳者あとがき・180頁)したものです。

 シュミットの『政治的なものの概念』は、その初出が1927年、その再録が1928年、第2版1932年、第3版1933年、第2版の復刊1963年と、都合5度にわたって、内容を少しづつ修正しながら世に問われます。このように『政治的なものの概念』が改訂された背景には、シュトラウスの「カール・シュミット『政治的なものの概念』への注解」(1932年)の影響があった、というのがマイアーの見立てです。シュミットとシュトラウスの影響関係を分析したのが、本書というわけです。

 マイアーによると、シュミットとシュトラウスの影響関係をより深く理解するためには、近代国家論を構築したトーマス・ホッブズを両名がどのように評価し、どのように咀嚼したのかを検討することが必要のようです。ホッブズを読み直す必要がありそうですが、その時間は、あまりなさそうです。

2008年7月22日 (火)

アメリカと私

 酷暑、酷暑!でも、これからひと雨きそうです。

 先週末は、母校で定期的に開催されている研究会に久しぶりに出席してきました。研究会では、違憲審査における目的審査の精緻化を提唱するもの、課税手続における事前照会について検討するもの、という憲法と税法に関する報告がありました。詳しい内容をお知りになりたい方は、わたしのところに資料がありますので、ご連絡ください(←教授会報告事項風)。(ついに身内ネタ)。

 母校は広島にあるのですが、広島への出張のときにはいつも、広島駅在来線口にある「わがままおまさんのシュークリーム」というお店のケーキを買って帰ります。わたしのケーキ評価の基準をなしているお店です。このところ同業他社のお店が同じ場所に出店してきたため、店舗が小さくなっていたのが気がかりです。いつかここの「トトロのケーキ」を買って帰りたいと思っているのですが、なかなか機会がなくて……。ところで、このお店と同じレシピを利用しているのではと思えるお店が、熊本市帯山か長嶺あたりの産業道路沿いあるのですが、どうなのでしょうか?わたしの思い違いでしょうか。わたしの感覚では、熊本の方が若干、甘いと思うのですが、もともと違うレシピなら当たり前ですよね。また、近々、レポートします。

 熊本・広島往復の間に、江藤淳『わたしとアメリカ』(講談社文芸文庫、2007年)を読みました。

 著者がアメリカ滞在中(1962年8月~1964年8月)に感じとった「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」が、さまざまな話題を転回するなかで語られています。当時は、公民権運動、キューバ危機、そしてケネディ暗殺と、アメリカにおいても激動の時期にあったわけで、そういう状況の中で日本人である著者が、深い感受性のもとで体感したアメリカ社会の深層が、鋭敏な筆づかいで描かれています。1972年にこの基となる本が公刊されているのですが、35年以上経った今でも、一読の価値ある本だと思いました。

 「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」にかかわる記述ばかりでなく、わたしが感銘をうけた部分がいくつかあります。そのうちの一部分を引用します。日本では文芸評論家として名が知れはじめていた著者が、プリンストン大学の2年目の滞在時には教鞭を執ることになり、その第1回目の講義開始時の風景です。

 「私が……話はじめると、学生はいっせいにペンを動かして、ノートをとっていた。それは、意外に感動的な光景であった。私は、いわば、それまでに思いも及ばなかった新しい生き甲斐のようなものが、自分のなかに芽生えはじめたのを感じた。それは、今まで私のなかで眠っていた「教師」という可能性が目覚めたというだけのことではない。私が、講義するという行為を通じて、過去から現在までの日本文化の全体に対して、自分を捧げているという感覚である。思えば、私はある確信をもって自分を捧げられるものの到来を待っていたのかも知れない。おそらくは深い無意識の奥底で。そして、今、私は、それがついにやって来たことを感じているのかも知れなかった。」(138頁)

 わたしも講義をしたりその準備に勤しむなかで、著者のような感覚を得て、なんともいえない満足感に浸ることがあります。それは大げさに言えば、学問の発展のその中に身を投じ、それを学生とともに体得しているような感覚です。思えば、わたしが学部生として憲法の講義を受けていた内容と比べて、現在の憲法学は、学問的内容としては格段と進歩していると思います。それは単に重要判例の数が増えたことだけではなく、既存の分析枠組みを何度も打ち壊す中で獲得されてきた憲法学の現段階での到達点が、20年前と比べれば、もちろん高水準になっているということです。この憲法学の営みを学生の前で講じることができ、その講義を学生が聴いてノートをとる場面に出くわしたとき、わたしも著者と同じような感激と、憲法学に対する責任のようなものを感じたことがあります。もっともこのような憲法学の発展についてのわたしの感激・感覚が、学生にどの程度伝わっているのか、一抹どころではない不安もありますが……。だいたい話している本人が感動しているときには、学生は引いているというのが、講義の常でしょうから。

 (ちょっと今回はえらく熱のこもった内容ですが、悲しいかな、憲法学の発展にわたしがどの程度寄与しているかと言えば……それは皆無ではないことを願うばかりです)。

 というわけで、わたしが今まで読んだアメリカ留学・滞在本のなかでみなさんに紹介したいのは、藤原正彦の『若き数学者のアメリカ』(新潮文庫、1981年)と、阿川尚之『アメリカン・ロイヤーの誕生』(中公新書、1986年)ですが、本書も大変興味深い本でした。アメリカに留学したくなりました。

 【追伸】広島にいったとき感じたこと。この時期は、どこでも暑い。

2008年7月17日 (木)

政治的なものの概念

 あさからよく晴れていたと思ったら、さっきにわか雨がありました。暗雲たちこめてきました。

 定期試験の実施と採点が残っているので本格的な夏休みとはいきませんが、それでも現在は補講期間なので、補講をしないわたしにとってはちょっと一息つける数日です。

 この夏休みはカール・シュミットのものを読み直そうと思っているので、その手始めに、田中浩・原田武雄(訳)『政治的なものの概念』(未来社、1979年)を読みました。

 友・敵区別が先鋭化する例外状態(その象徴的なものが戦争でしょうが)にこそ政治的なもの(国家的なもの)が顕現すると説いたシュミットの理論は、英米の個人主義的哲学を例外状態、急迫事態を忘却したやわな自由主義を信奉するものであると批判するものです。

 本書には、抽象的概念として政治的なものを問うのではなく、政治的なるものの本質を問うことで強い国家の復権を志向したシュミットの法思想が端的にものされていると思いました。

 ところでシュミットを読み直おすことを夏の課題にしたのは、ツタのからまるR大に移られたわたしの指導教官とのメールの中で、先生もシュミットを再検討しているとあったからです。わたしのような凡庸な学者は、誰かに疑問を投げかけながらでないとものごとの本質まで行き着かないので、この機会にちょっと勉強し直そうと思いました。

2008年7月14日 (月)

基本権クラシック

 今日も暑い、暑い。

 前期の憲法の教科書として指定した、阪本昌成『憲法2 基本権クラシック』(有信堂、2008年)、講義準備と並行して読み進めてきましたが、ようやく講義も最終段階になり、読み終えました(もちろん、初版、第2版は、なんどとなく通読しております。なぜなら、著者は、わたしの先生ですので)。

 この本で講義をしてみて、やはり学部生にこの本の細部まで理解することは困難だと思いました。ただ、既存の判例、学説を下敷きにして、その枠組みを批判的に検討していく視点を会得するためには、打ってつけの本だと思います。この本で憲法を学んだ学生には、上級生になって、是非、この本を読み返してもらいたいと思います。そうすれば、この本のよさを体得することができると思います。

 この本は、読み返せば必ず新しい発見がある本だと思います。学部生にも学問が発展していくその過程を体感してもらいたくて、この本を教科書に指定しました。つぎつぎに新しい科目をこなさなくてはならないので、単位をとった科目の教科書を読み返す機会はあまりないかもしれませんが、志の高い学生の知的欲求を刺激する恰好の本だと思います(もっとも、単位をとれたらの話ですが……)。

2008年7月 5日 (土)

刑法入門

 暑い!暑い!うぇ~

 本年度から勤務校の校舎が耐震改修にはいります。その第一段として、今月の半ばには、法学部の資料室が閉鎖されてしまいます。今日は、気になる資料を複写するために、出勤しました。

 一応の複写も終わったので、山口厚『刑法入門』(岩波新書、2008年)をざぁーっと読みました。

 いま1年生の演習で死刑制度の是非を考えていて、なんかのヒントでもないかなぁ~と思ってながめてみました。久しぶりに童心に帰ったようで、懐かしい思いがしました。わたしも刑法の教員だったら、人気をはくしていただろうに(?)。もっともカントやヘーゲルを使って応報刑論をうだうだと唱えていたかもしれませんね。

 さて山口先生の本、初心者向けに徹しておられて、わかりやすい本でした。まさに1年生にお薦めです。とくに、自殺そのものは「書かれざる、当然の理」(40頁)により犯罪として処罰されないのに、なぜ自殺を助けることが罪になるのかについての説明は、はじめて聞いたような気がして、新鮮でした。それはつぎのようなものです。

 「何らかの理由から死ぬ意思を抱き、そのため必要な行為をすることはありえますが、一旦死んでしまえば、たとえ後で後悔したとしても、再び生き返ることはできませんから、もはや取り返しはつきません。かけがえのない生命を保護するという観点から、本人の当座の死ぬ意思を無視して、本人に自殺を促すことや本人を殺害すること自体を禁止・処罰することにしているのです」(42頁)。

 ほほー、そうですか。なんとなく他の説明方法もありそうですが、まぁ、今日のところはこの辺で。

2008年7月 1日 (火)

言論・出版の自由

 晴れ!でも明日から雨。

 もう7月です。定期試験のことが気になる時期になりました。7月はじめの記事として、本の紹介です。紹介するのは、『失楽園』で知られる(渡辺淳一ではなく)ジョン・ミルトンの『言論・出版の自由』(岩波文庫、2008年)です。

 この文庫には、検閲の禁止を求めてミルトンがイングランド議会に向けて行った演説である『言論・出版の自由:アレオパジティカ』(1644年)と、個人の尊厳をもっとも保障する統治形態は共和制であるとした『自由共和国建設論』(1660年)の2篇が収録されています。

 『言論・出版の自由』には、カトリック教会の異端審問所にその発祥をみる検閲制度について、それが人類の知の発展にとっていかに弊害となるかを、ミルトン心の叫びともいえる言説によって唱えています。そのことは、たとえば「あらゆる自由にまさって、知り、発表し、良心に従って論ずる自由を私に与えよ。(原文改行)今まで受け入れられてきた事柄に対し、新奇とか不当とかの理由で抑圧するのは……有害にして不適当なこと」である(72頁)という件によく現れていると思います。

 『自由共和国建設論』では、数による多数者支配の弊害を説きつつ、議会議員の地位について選良終身制の導入が主張されています。その背景には、訳者・原田純さんの「解説」にあるように、「数を集めれば国権が転がり込む権力産出方式は政治的魔術」(190頁)という多数だから支配するということについての懐疑的見解があるものと思われます。民主制はとかく「数の論理」によって国政運営されるきらいがあります。この「数の論理」により独裁制を承認してしまうような「自滅議会」(187頁)とならないよう、ミルトンは選良による統治を望んだのでしょう。

 ミルトンによる見解の是非は別にして、『自由共和国建設論』は、統治のあり方を考える際に今後とも読み継がれていくべき書物であると感じました。

2008年6月24日 (火)

ロイヤー・ジョーク

 雨。でも学校はあります。

 講義前に少し時間があったので、判例時報2000号の巻頭に掲載されていた、W・オーバートンのUCLA Law Reviewに掲載された論文を水戸英語文献輪読会が紹介している「社会的テクストとしてのロイヤー・ジョーク」を読みました。

 水戸英語文献輪読会による「はじめに」にあるように、オーバートンの論文は「アメリカにおける弁護士に関する有名なジョークを分析し、その背景にある動機を明らかにすることを目的としている」ようです。ただ、ここでは堅苦しい分析は抜きにして、面白かったジョークを2、3引用します。判例時報は図書館、資料室等で簡単に読めるので、興味のある方は、2000号(とくに記念号ではないよう)を手に取ってみてください。

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 まず、弁護士はお金に取り憑かれていることを示したジョークとして(5頁)。

 ある人が弁護士に費用を尋ねると、3つの質問に対して150ドルであると言われた。

 「それはあまりに法外に高いのではありませんか。」彼は尋ねた。

 弁護士は、「そのとおりです。」と答え、「では、3つ目の質問は何ですか?」と言った。

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 弁護士の意見はときに詳細な部分に囚われすぎていて重要な問題を無視した的はずれなことがあることを示したジョーク(6頁)。

 熱気球がしぼみはじめ、軌道が外れた。乗員は、地上3フィートほどのところをゆっくり操縦していた。

 「私は今どこにいるのでしょうか?」彼は偶然通りかかった人を呼び止めた。通行人は答えた。「あなたは熱気球の中にいますよ。地上3フィートほどのところです。北に向かっています。」

 「あなたは弁護士に違いない。」乗員は言った。「なぜならあなたが言ったことは非常に明瞭で、大変に正確で、まったく役に立たないからだ。」

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 どうでしょうか、面白そうでしょう。最後にもうひとつ(10頁)。

 Q 弁護士が嘘をついているとき、どのようにしてそれが分かりますか?

 A 唇が動きます。

2008年6月20日 (金)

マルクスの『資本論』

 本日も、大雨・洪水警報が発令されました。4限目以降は休講のようです。またまた講義はありません。

 雨の中、フランシス・ウィーン『マルクスの「資本論」』(ポプラ社、2007年)を読みました。

 ウィーンによる本論の方では、『資本論』が出版されるまでの背景について、マルクスやエンゲルスなどによる書簡などを駆使しながら、要領よく紹介されています。とくに、エンゲルスが献身的にマルクスを支援するのですが、マルクスの思考はいっこうにまとまらず、つぎつぎに「言い訳」のようなことを言う場面など、愉快なコンビぶりに映りました(エンゲルスにとっては、たまったものではなかったのでしょうけど)。

 またマルクスがもっとも批判的であったロシアで、はからずも『資本論』がもっとも受容されたことや、マルクス死後のマルクス読解についての試み(フランクフルト学派やアルチュセールによるなど)が紹介されており、手頃な『資本論』解説書として、読みやすい書物でした。

 さらに、本書には佐藤優さんによる解説があります。この解説を読むと、マルクスの『資本論』は革命の書物としてよりも、資本主義というシステムの論理を解明するための書物として意義があることがわかります。新自由主義に向かっている感のあるわが国で、それがどこに辿り着くのかを検討するためには、マルクスの『資本論』から得ることができるものが多そうです。佐藤さんによると、『資本論』が解明した資本主義の内在的論理からすれば、新自由主義は、格差社会などという生温い状態でなく、貧困社会という「地獄絵」に帰着しそうとのこと。『資本論』を読み直す時が到来しているようです(といっても、恥ずかしながら、わたしは『資本論』を読み通したことはありません)。

2008年6月18日 (水)

国家は、いらない

 梅雨の中休みでしょうか、今日も晴れるようです。気温も朝から高め。少し蒸し暑さもあります。

 おはようございます。今日締切の論文の校正を終え、これから1限の講義です。これが終われば、わたしの1週間も終わりです。

 そのまえに昨日読んだ本を。新進気鋭の無政府主義者・蔵研也さんの『国家は、いらない』(洋泉社、2007年)です。

 蔵さんの本領が存分に発揮されている本です。いかに規制社会が消費者にとって不利益となっているのか、読み終えると怒りさえ感じます。とくに水道・ガス・電気などが特許事業となっているためにそれぞれの利用料金が高値となってしまっていて、そのことが結局、いちばん貧しい人の生活を圧迫することになっているということを、海外での生活体験を踏まえて述べている点など、和製フリードマン誕生の感さえします。

 国家による既得権保護により、いちばん弱いところにしわ寄せがいってしまっている。そのことは公共料金だけでなく、医療、住宅、税制など、どの分野でもあてはまることのようです。

 それでも随分、規制緩和が進んできているのではないでしょうか。いままでの政策をゼロ・ベースから再考することは、机上ででしかできないでしょうから。ただ、規制緩和にともなう「痛み」の部分も、注視しなければならないと思います。その「痛み」も、いちばん弱いところに現れているようにも思うので。

2008年6月11日 (水)

僕はパパを殺すことに決めた

 強い雨が降っています。これだけ潔い雨だと諦めもつきます。

 雨のなかようやく話題作(もう時機を逸してしまった感もありますが・・・)にお目にかかれたので、さっそく読みました。

 少年事件の全貌を供述調書にもとづきつまびらかにしようとする本書は、その調書の入手先、入手方法をめぐって、大きな話題になりました。結局、現在では絶版になっているようで、入手するためには少し骨の折れる本です。もっとも、今日アマゾンでみたら、それほど高価ではなくなっていました(3000円と少し)。わたしはこの本を熊本市立図書館に貸し出し予約をし、30人程度待ちをしたあと、ようやく順番が回ってきました(もう、忘れていました)。わたしが図書館に予約を入れた時期には、たしか10000円を下らない価格が付けられていたと思います。

 本書は、加害少年が自宅を放火するまでに至らしめた理由として、なによりも父親監視下での壮絶な虐待のもとでの自宅学習をあげ、継母との確執というワイドショーをにぎわせた理由を明確に否定しています。

 また供述調書だけでなく、著者・草薙さんが取材したことに基づいた独自の見解もあちこちに散りばめられており、重苦しい内容ですが、一気に読み切ることができました。

 少年事件でしかも供述調書を扱っている本なので、これ以上ブログで詳細を述べることは自重しようと思います。

  この文章を書いている間に、熊本地方には大雨・洪水警報が発令されたようで、どうやら午後から大学の講義は休講のようです。

2008年5月30日 (金)

ロレンスの結婚観

 蒸しています。夕方からは雨のようです。

 今日は午後からある審査会に出かけるために、学外に出ます。その前に、ゼミの準備をしました。次回は「チャタレイ事件」の判例分析です。これは刑法175条の「わいせつ物頒布罪」にいうわいせつ概念を「わいせつ3要件」として示した有名な判例です。憲法との関係では、抽象的危険の除去という社会的法益のために、表現の自由を制約する法令の合憲性について問題となるところです。

 その予習をかねて、福田恒存評論集の第3巻『平和論にたいする疑問』所収の「ロレンスの結婚観」を読みました。まぁ、ゼミの予習には直接的にはなりませんが……。

 この文書は、福田恒存によるチャタレイ裁判における最終弁論です。そこで彼は、『チャタレイ夫人の恋人』の著者であるD・H・ロレンスの「性の思想」についての分析を展開しています。

 わたしには難しくてよくわかりませんでしたが、ロレンスはその作品のなかで、一貫して「性の慎み」を重要な価値と認め、「性の秘密性」を批判しているようです。「性の慎み」とは、性に対する敬虔な感情のことで、貞操観につながるもののようです。ほんと、あんまりよくわかりませんでした。学生がわたしの講義を受けた後に覚えるあの、はぁ~、といった感じでしょうか。

 文学(芸術)と法規制との関係については、以下のように述べられています。「一つの文化財である文学作品を法の対象にする以上、その作品が真の意味で文学でないことを立証しなければなりません。曖昧なショックというような言葉を用い、影響論から罪におとすというようなことが行われてはならない」(118)。(福田恒存の文は、旧仮名遣い、旧漢字を用いているので、現行のものに変えて引用しています。「福田恒存」も本当は旧漢字です)。

 チャタレイ事件では伊藤整の訳書の12箇所にわいせつな部分があるとされ、起訴・有罪判決を受けるのですが、福田の思考法からすると、およそナンセンスな判決なのでしょう。

2008年5月21日 (水)

海賊版の思想

 快晴!今日も暑い一日のようです。

 このところ読書量が減っているように思います。講義期間中は致し方なし、というところでしょうか。

 今日は午後から教授会。その前に、下記の本を読みました。

 英国で永久コピーライトに反対した書店主・ドナルドソンのお話しです。英国では1710年に「アン法」というコピーライトに関する法律が制定されます。この法律がそれまでに出版されていた書籍にも適用され、慣習法上の権益というものが否定されるのか、それとも法律制定以降もなお慣習法上の権益(永久のコピーライト)が認められるのかについて争われた「ドナルドソン 対 ベケット」を取り巻く物語が、本書の中心テーマです。

 上記の訴訟について、「海賊版」出版者であったドナルドソンにとっては、一面で、自らの出版の権利を確保し利益を確保しようとしたものともいえますが、他面、永久コピーライトに反対することで書籍内容の自由利用を促進しようとしていた、ということを描き出すことが著者の意図だと思います。ドナルドソンの活動で、当時の人びとの、そして、後世の人びとの知的欲求がいかに自由に満たされることになったことでしょう。

 「海賊版」を出版していたドナルドソンですが、それでも彼の思想は、後世のわたしたちからみて、非常に意義深いものであったことが、本書から窺えます。

2008年5月 9日 (金)

澁澤龍彦

 くもり。湿度が高く、天気は下り坂でしょう。

 夕方からゼミの飲みがあるので、その前の時間を利用して、すこし文章を読みました。

Cimg1398  読んだものは、NHK「知るを楽しむ」2007年10・11月のテキストのうち「澁澤龍彦 眼の宇宙」です。背景は『週刊読書人』2008年4月18日号です。「澁澤龍彦の遺したもの」との特集が組まれています。(ちなみに、「彦」の字、変換できませんでした)。

 澁澤龍彦は、フランス文学者であり、マルキ・ド・サドの研究者として知られています。

 澁澤龍彦の本は、河出文庫のものを中心に10冊以上所有しています。ただ1冊も読んだことがありません。彼の翻訳による『悪徳の栄え』(サド著)も本棚に眠ったままです。なんとなく澁澤や三島由紀夫のものは、わたしの肌に合わないような気がして・・・。

 それでも今年は澁澤龍彦生誕80年のようです。これを機に、本年中には、1冊ぐらい澁澤の書いたものを読んでみたいと思います。

2008年5月 8日 (木)

憲法をラディカルに考える

 今日もよく晴れています。

 週の後半は講義がないので少し気が楽です。もっとも本当に楽をしてしまうとなにも進まないのですが……。

 連休中に読みかけていた本を読了しました。

 今年の憲法記念日前に出版された『対論 憲法を/憲法から ラディカルに考える』(法律文化社)です。

 6人の論者が2人1組で対論しています(樋口陽一×杉田 敦、西原博史×北田暁大、井上達夫×齋藤純一)。この各対論をコーディネイトしているのが愛敬浩二さんです。

 愛敬さんは、「エピローグ」で、「改憲論議」と「憲法論議」をわけて、こういいます。「戦後日本において、憲法論議が現実の政治問題として語られたのはほとんどの場合、『改憲論議』としてであった」(274頁)。そして「改憲論議」の場合には、もちろん死刑廃止や環境権の法定という問題もありますが、その焦点は9条にあてられている、としています。

 これに対して「憲法論議」すなわち、憲法について語ることは、9条の問題に限定されるものではありません。価値観を異にするわたしたちが、それにもかかわらず共通の法的枠組みのなかで生活するためには憲法が必要となり、その憲法についての「会話」のきっかけを提供するのが本書の役割だと、愛敬さんは言います(「プロローグ」、277~278頁)。

 愛敬さんを含め7人の登場者は、いずれもその分野での一線級の論者です。憲法条文解釈に囚われることのない、そして9条論に終始していない憲法論議が、書中にて展開されていました。

2008年5月 3日 (土)

憲法はまだか

 またまたよく晴れています。暑い、暑い。

 憲法記念日ということで、例年通り、憲法に関するものを読みました。といっても、今年はとくに用意していなかったので、本棚にあった、ジェームス三木『憲法はまだか』(角川文庫、2007年)を読みました。

 これはもう10年以上前になると思いますが、NHKで放送された同名の番組の原作です。この作品の主人公は、一応、憲法でしょうが、憲法改正担当国務大臣・松本ジョージ(漢字が出ない)がもう一人の主人公だといえると思います。その役を津川雅彦さんが演じていて、そのコミカルな感じがGHQに主導権を握られ翻弄される日本そのもののように思えたことが印象に残っています。

 新憲法は当初日本側が草案作成作業にあたっていたのですが、昭和21(1946)年2月1日に新憲法の基となる「憲法問題調査委員会の試案」が毎日新聞にスクープされます。その保守的内容に否定的評価を下したGHQは、自らの手で、日本の憲法を作ろうとします。

 連合国軍総司令部(GHQ、司令官はダクラス・マッカーサー元帥)の民政局長ホイットニー准将が昭和21年2月4日午前10時に、20数名の民政局行政部員を前に、以下のように述べます(『憲法はまだか』147頁)。

 「紳士淑女諸君。突然ではあるが、もし週末にパーティーやデイトの約束があれば、ただちに取り消さなければならない」

 「なぜならば、我々はこれから、憲法制定会議を始めるからだ」

 「これから一週間、民政局は全力を挙げて、憲法草案の作成に取りかかる。マッカーサー元帥は、日本国民のために、新しい憲法を作成せよと、特別命令を下された」

 日本国憲法の草案は、この後、9日間で書き上げられたことは有名な話です。

 ジェームス三木さんは、「『日本国憲法』に関わった人々を、記録の隙間から、人間として立ち上がらせ、心臓に鼓動を与え、呼吸をさせ、感情と性格を蘇らせたい」(422頁)との思いから、この本を書かれたそうです。新憲法作成作業の舞台裏をテンポよく描いたこの作品は、読み応えのある本でした。

 このとき民政局のスタッフとして「日本国憲法に男女平等を書いた女性」として有名なベアテ・シロタ・ゴードンさんが、4月29日に札幌市立大学で講演をされたそうです。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんの講演

 彼女の自伝は邦訳されています。ベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマス:日本国憲法に『男女平等』を書いた女性の自伝』(平岡磨紀子訳、柏書房、1995年)。また、GHQ民政局による9日間での新憲法作成作業については、鈴木昭典『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(創元社、1995年)も参照してください。

2008年5月 2日 (金)

現代政治学ゼミ

 晴れ。夏日!

 昨日、今日と、講義がないため、ゆるんだ一日を過ごしています。

 ただ少し気になる仕事があり、草野 厚『わかる現代政治学ゼミ』(実務教育出版、2000年)を読みました。

 この本、出版社からわかるように、公務員試験対策の本です。ただ、政治学のイロハがきちんと書かれた良書だと思い、ずいぶん前に購入して本棚にあったものです。

 今日この本を読んだのは、いま、高校の「社会科」と大学での憲法を架橋するようなテキストの共同執筆の仕事を依頼されていて、まだ締切には時間があるのですが、ふと、気になったからです。

 わたしは「国民主権」の章を担当するのですが、その章で、ネオ・コーポラティズムとかポリアーキーといった言葉を使って、原稿を書かなければならないのです。これらの言葉、聞いたことはありましたが、原稿に使えるほど理解していたわけではないので、とりあえず、ちょっとだけ、勉強してみました。まだこれらの言葉を使って「国民主権」の章を書けるか、はなはだ心もとないのですが、これから頑張ってみようと思います。

 明日から連休ですね。みなさま、よい連休を!

2008年4月23日 (水)

父と娘の法入門

 今週の水曜日も雨ですね~。雨の日は読書、ということで。

 この本は、動物を法律はどう見ているかという視点を基軸に据えて、法の考え方を軽快に説いています。「岩波ジュニア新書」ということで中高生向けかもしれませんが、大学の新入生が休み時間に読む本としても、お薦めです。

 著者は民法学の大家です。だから内容も民法のお話しが、比較的多いと思います。ただ、法の基本は民法にありますし、わたしたちの生活に密着しているのも民法だと思うので、法学初学者にも読みやすいものとなっていると思いました。

 今日の1限の講義は、マイクが使えませんでした。この手の機器の故障によく出くわすように思います。機械も人を選ぶと言いますから……。地声で講義したので、疲労感も2倍、2倍です(←これ、もう誰も知りませんか……)。

2008年4月16日 (水)

ニートや自殺は悪いこと?

 小雨。でも朝から降り続いています。このところ、水曜日の天気が悪いように思います。水曜日の昼休みには野球をしているのですが、これでは何しに学校に来たのかわかりません。

 ところで、雨の日は読書ということで、下の本を読みました。

 大学業界では有名な『大学教授になる方法』シリーズの著者の本です。

 本書では、有名な哲学者が、ニートや自殺は悪いことか、ホームレスではいけないのか、専業主婦はどうか、という問題について回答しています。もちろん著者がその哲学者に扮して回答しているのですが。ある意味で深刻な問題を著者一流の軽快なタッチで描いていて、読みやすい本でした。

 まぁ、「親子の仲が良すぎては、いけませんか?」というような教育問題についてルソーが答えていたり、「働きたくない!」ことはいけないことかについてエピクロスが答えたりしていますから、社会問題を深く考えるためのものというよりも、娯楽的要素の強い本であると感じました。

 今日の午後は教授会があり、夜は新任の先生方の新歓です。居眠りと飲み過ぎに注意!

2008年4月12日 (土)

要するに

 くもり。これから天気は下り坂のようです。

 来週からの本格的な講義に備え、講義準備をしています。その合間を縫って、山形浩生『要するに』(河出文庫、2008年)を読みました。

 帯に「社会人になる前によんでごらん。」とあります。この本は就活中のひとにおすすめ(といっても就活のハウ・ツゥが書かれているわけではありません)かもしれません。とくに「会社ってなーんだ」など。

 わたしは、山形浩生さんのことを、ローレンス・レッシグの本の翻訳者として記憶していました。レッシグ本を翻訳するぐらいだから、先見の明のある人だと思い、興味深く読みました。文体には賛非あるようですが、わたしは読みやすかったと思います。内容の多くは、インターネット社会、オンライン上での諸問題について山形さんが日頃考えていることをまとめたものです。

 

2008年4月 4日 (金)

著作権法

 薄曇りか。でも暖かい。

 今日は入学式です。新入生、とくに法学部の新入生の方、おめでとうございます。

 ということで、本日は、著作権法学界の泰斗である中山信弘先生の『著作権法』(有斐閣、2007年)を読み終えました。

 基本書なので、読み方はいろいろあると思います。わたしは、もちろん、憲法学の視点から著作権法を考えてみる、という視点で本書を読みました。

 憲法学の視点からは、少なくとも、つぎの点が注目されます。

 ① 著作権法の保護をうけるのは「表現」(expression)でありたんなる「思想」(idea)は著作権の客体ではないというけれども、この法理(idea-expression dichotomy)は、法上、保護すべきものを「表現」と呼び、保護すべきでないものを「思想」と呼んでいるだけで、その規範的線引きの在処(仕方)こそが法理論的に探究されるべき問題であるということ。

 ② 著作権の保護を受けるのは創作的表現であるが、この創作性概念を著作者の個性類似の概念でとらえるのではなく、「表現の選択の幅」という新しい概念で捉えるべきだとしていること。中山先生は、ある事柄をある表現を用いて表した場合に、同じ事柄を別の表現で表せるなら、前者の表現は著作権の保護対象としてよい(著作者に独占させてよい)と言います。

 註で引用されている論文や判例を読みながら読み進めてきたので随分長い時間がかかってしまいました。が、講義期間が始まる前に読了できたので、春休みの勉強にひと区切りがつきました。

2008年3月25日 (火)

パール判事

 薄曇り。強めの風が吹いています。

 本日は勤務校で卒業式・学位記授与式が挙行されました。卒業生・修了生の方、おめでとうございます。わたしは学部卒業、修士課程修了のときは進学が決まっており、博士課程修了のときには研究生としてそのまま大学に残ったので、大学の卒業・修了時にあまり感慨深いものはありませんでした。

 ところで春休みも残りわずかになってしまいました。そんななかで、今日は、中島岳志『パール判事:東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社、2007年)を読みました。

 東京裁判でのパール判事の反対意見は、ともすると「大東亜戦争肯定論」として引用されることがあります。本書は、このパール反対意見理解を真っ向から否定します。

 本書によると、パール反対意見は、決して大東亜戦争を肯定していません。そればかりか、軍首脳部の当該戦争の道義的責任を明確に認定しています。ただそうではあるけれども、東京裁判の被告人であるA級戦犯は、当時の国際法・刑事法下では無罪と判決しなければならない、と主張しているのだといいます。

 パール反対意見は英文で25万語、日本語文庫版で1400頁(東京裁判研究会編『共同研究・パル判決書(上)(下)』講談社学術文庫)を超える長大なもので、しかも法律書、歴史書、哲学書を参照しつつ書かれた非常に難解なものです。本書はわが国でミスリーリングされることの多かったパール反対意見の概要を的確に伝えている好著だと思います。

2008年3月21日 (金)

法律学習マニュアル

 よく晴れています。

 昨日の休日を利用して、弥永真生『法律学習マニュアル』(有斐閣、第2版補訂版、2007年)を読みました。

 この本は新入生に配当される必修科目のテキストなので、4月までには通読しておこうと思っていたものです。もっとも、この図書に従って講義を展開するわけではないようですが。

 それにしてもわたしが学部学生の頃にはこの手の本はありませんでした。ただ、この本を読んでみると、こんなに勉強している学生などいるのかなぁ~、との疑問を抱きます。わたしの学部生当時は、もちろん、こんなに勉強していませんでした。筆者である弥永先生の文章の端々にも、実は先生ご自身、こんなには勉強しておられなかったかのような記述を見ることができますが、でも、モデルとなっているであろう東大生はこのくらい勉強しているのでしょうか。おそるべし、です。

 この手の本が存在する現在ですから、新入生にはこの本をもとに実際に勉強して、自分なりの rule of thumb を会得してもらいたいものです。

 今日はこれから教授会があり、夕刻から夜にかけて、本年度末で法学部を退職される先生方の送別会があります。

2008年3月19日 (水)

妻と私 幼年時代

 雨が降り続いています。

 江藤 淳『妻と私 幼年時代』(文春文庫、2001年)を読みました。

 「妻と私」は、末期癌で病床に臥した妻を看護した江藤の看護日記です。子どもがいないながらも、だからこそ、深い絆で結ばれていた夫婦に突然訪れた不幸。臨場感あふれる筆致で描かれています。とくに病名の告知に対する責任を一方的に家族側に負わすことについて論じた部分に目がとまりました。引用します。

 「しかし、その医者は、当の本人には『脳内出血』だといっているのだ。そして、家族には本当の病名を告げて、家族からそれを患者に『告知』せよという。あからさまにそういうわけではないが、どうせ助からないのだから、観念して『告知』したほうが、結局お互いのためだというニュアンスは否定できない。/これは患者にとってはもちろん、家族にとっても残酷きわまる方法ではないか。しかも、『告知』の責任だけを負わせて、患者を救うことのできない家族にいたっては、あまりに惨めというほかないではないか。……/いくら現代の流行であるにせよ、このからくりには容易に同調できない。現に家内は何も知らずに、あんなに安らかな寝息を立てて眠っているではないか。……」(28頁)。

 「幼年時代」は江藤の絶筆となりました。4歳のときに生母を亡くしている江藤の回顧記の続きをもう少し読みたいとも思いますが、それは叶わぬ願いです。

 江藤の本を読み終えて感傷に浸っていたら、学部長先生が研究室に来られて、来年度の学内委員会について、わたしへの配役を告げて行かれました。ぐうのねも出ませんでした。

2008年3月 5日 (水)

高瀬舟

 晴れているような曇っているような。

 論説原稿がひといきついたので(煮詰まったので)、昨日の『哲学ディベート』から派生した文献を2本よみました。

 1本目は、江藤淳の自死と遺書を受けて書かれた石原慎太郎「さらば、友よ、江藤よ!」文藝春秋1999年9月号です(大学図書館から借り出しました)。これは自らの死について「諸君よ、これを諒とせられよ」と請う有名な遺書を受けて物された旧制中学同期生による追悼文です。湘南中学時代の江頭淳夫少年の早熟ぶりやその後の卓越した国家認識を、石原が寂寥感の中で回顧しています。大切な友を失った喪失感、妻を失った友の力になれなかった無力感が、全文に漂っています。江藤が自死した日の午後、関東一円は激しい雷雨に見舞われていました。「あの雨さえなかったらなーー」という石原。ふとしたことで、人は死を決断するのかもしれません。江藤淳の自死を美化することには賛否があります。ただ、友の死を決して貶めてはならないという石原の意思が強く感じられる文章でした。

 もう1本は、森鴎外の「高瀬舟」です。

 鴎外の「高瀬舟」は高校のときに読んだように思います。当時はeuthanasiaとはなんのことかよく知らず、ただ、鴎外の作品だというだけの理由で読みました。大学に入ってから鴎外の「高瀬舟」が安楽死を扱っていると自覚してから、読もう読もうと思っていて、ついに今まで読みませんでした。安楽死を論ずる文章のなかではよくこの「高瀬舟」が取り上げられているので、そういった文章のなかで、もう「高瀬舟」の内容はよく知っていました。鴎外の「高瀬舟」の内容は、わたしが紹介するまでもないでしょうから、ここでは措きます。

 「高瀬舟縁起」のなかで鴎外自身が明らかにしているように、これは池辺義象校訂の『翁草』に出ているはなしを、鴎外が翻案したものです。鴎外は、『翁草』の該当箇所から、「財産の観念」と「ユウタナジイ」をモチーフに「高瀬舟」を書いたようです。

 最近わたしは、著作権について勉強しています。鴎外の「高瀬舟」にふれて、優れた作品も、先行著作物の翻案でできているのだぁ~、と改めて感じました。鴎外が死亡したのは1922年です。鴎外の「高瀬舟」の著作権は切れているので、いつかは、鴎外の「高瀬舟」を自由使用した、誰にでも読まれるような優れた作品にお目にかかれるかもしれませんね。

2008年3月 4日 (火)

哲学ディベート

 曇り。寒~。

 春休みということもあり、論説の原稿を書いています。その合間を縫って、高橋昌一郎『哲学ディベート』(NHKブックス、2007年)を読みました。

 副題にあるように(<倫理>を<論理>する)、現代社会で発生している倫理的問題を、論理的に考えてみるというコンセプトの本です。

 取り上げられている倫理的問題は、ヒヨコをニワトリに育てて最後はそれを食することで命の尊厳を認識させようという「命の授業」、韓国での「犬食問題」から文化相対主義を考えようとすること、「代理出産」の是非やアメリカでは実際に存在する「ベビー・ビジネス」の問題、「死刑」存廃やそれに連動する「終身刑」導入の是非、性犯罪者の情報公開をする「メーガン法」制定や「売春」適法化をめぐる問題、「安楽死」・「尊厳死」など、誰でも一度は深く考えてみようと思ったことがある興味深い問題です。

 標題の「哲学ディベート」とは、反対意見を弁論術で説得して勝ち負けを争う「競技ディベート」ではなく、参加者相互の意見応酬のなかで問題を深く考えていく手法として、著者が実際に大学の授業のなかで取り上げているものとされています(「哲学ディベート」というのは著者の造語)。ディベート様式で書かれているので、非常に読みやすく、また、内容が理解しやすくなっています。

 最近の大学では、新入生に、入門ゼミなどと称して、大学での勉強方法から学生生活一般について学ぶ授業が導入されています。そのなかで取り上げてみたい問題と、議論手法が書かれていると思いました。

2008年2月22日 (金)

最高学府はバカだらけ

 曇り。昨日とはうって変わって寒い一日となっています。昼にいった歯医者さんで打たれた麻酔がまだ効いています。

 そんななか、石渡嶺司『最高学府はバカだらけ:全入時代の大学「崖っぷち」事情』(光文社新書、2007年)を読みました。衝撃的な標題につられて、一気に、読み終えました。

 衝撃的な標題ですが、本書の「はじめに」に「大学とは学生を成長させる化学反応を有する不思議な組織」とあります。どのような要因でその「化学反応」が起きるのかは、まだ「ひと言で説明できるような答えはまだ見つけていない」とのことですが、本書のなかには、そのヒントとなる部分が散りばめられているのでしょう。本書のどこにそれを見つけるかは、読者次第というところでしょうか。

 かく言うわたくしも大学に身を置く物として、この斜陽産業の行く末について、人ごとではいられません(それでも、勤務校を移って、この手の本を心穏やかに読めるようになりました)。わたし一人の力でどうなるものでもありませんが、かつて学生だった時代に大学から受けた恩は、いまの学生を大切にすることでしか報いることができないので、世のため人のため学生のために尽くしたいものです。

 といっても具体的にどうするのかということですが、結局は、日々、しっかりと勉強して、それを講義で学生に提供するとともに、論文を書いて、社会に還元していくというところでしょうか。わたしの論文など学問の進歩に仕えることはないと思われるので、直接的にわたしと関わる人へのサーヴィス提供を重視すべきかもしれません。

 ところで著者は、大学人の考えることは「世間の常識と大いにズレていて、どこかアホっぽい」と言います。これ、わたしが非常に気にしているところです。(著者の言葉は、大学が新学部・新学科を設置する際のネーミングについて述べられています。)

 「大学の教員です」というと(←こう言うことは滅多にないが)、尊敬のまなざしで見られるようです。出入りの業者の人も「先生、先生」言いますし。わたしも学生の頃は、大学の先生は、とってもエライと思っていました。ところが・・・。自分でなってみると、結構、普通ですよね~。でも、やはり世間ズレしているでしょうか。なにせ、社会に出たことがないのですから。一般的な思考法を採らないからこそ、学問研究ができるとも言えそうですが・・・。

 やはり大学の先生の思考法って、どこかおかしいでしょうか。どうでしょう。

 ところで、本書の各頁の下では、全国の大学を北から順に紹介しています。その文章が皮肉たっぷりで、おもわずクスッとなります。わたしの勤務校が取り上げられていなかったのが残念でした。

2008年2月20日 (水)

知的財産と創造性

 曇り。今日の教授会は長かった。会議等で時間が分断されると、なかなか勉強が進みません。ということで、今日も、読書を。

 今日は、宮武久佳『知的財産と創造性』(みすず書房、2007年)を読みました。

 著作物の創作者の利益と著作物の利用者の便宜をどう折り合いをつけていくのか。非常に難しい課題だと思います。本書は、専門的になりすぎることなく、また、ハウツー物に堕することもなく、著作権制度について、若干、利用者側の視点から描いた書物です。

 いわゆるデジタル万引きや図書館から借り出した本の複製を「私的使用」(著作権法30条)に該当するとしている点など、若干、疑問点がないではありませんが(このあたりが「あとがきにかえて」で作者が専門家から指摘されたという「微妙な問題を断言してしまうと誤解を招きやすい」という部分かもしれませんが)、それでも、実務的な視点から法制度を論評する水準の高い著作だと感じました。

2008年2月12日 (火)

高学歴ワーキングプア

 まぁ、晴れ、というところでしょうか。少し、冷たい風が吹いています。定期試験期間中ということもあり、今日も監督者として試験に立ち会いました。

 この週末に大学業界で少し話題になっている水月昭道『高学歴ワーキングプア:「フリーター生産工場」としての大学院』(光文社新書、2007年)を読みました。

 読み終えての感想は、とにかく文章がきれいで読みやすい、というものです。内容も、「高学歴……」となるかもしれないところに身を置いている著者が、誠実な取材のもとで書き上げているので、現状を性格に記述したものになっていると思います。とにかくよく書けていると思うので、わたしの言葉ではなく、著者自身の言葉で、この本の結論を示すとすれば、以下のようになると思います。

 「高学歴ワーキングプアたちは、大学市場全体の成長後退期と、無謀にもそれに抗おうとした既得権維持の目論見の間に生じた歪みに産み落とされた、因果な落とし子だったのである」(168頁)。

 大学院とくに博士課程進学者がみな「高学歴……」になったわけではありません。ただ、大学にポストを得ることが難しくなっている状況は、なによりも数字が示しています(5割程度というところでしょうか。もちろん、分野によりますが)。また、今後は大学倒産が予想され、「高学歴……」が「中途生産」される(126頁)とあります。背筋が凍る思いです。

 本当に人ごとではありません。ただ、想像力のないわたしにできるのは、いまの置かれた状況のなかで、精一杯職務に励むことだけです。

 それにしても、大学に席を置く学生の数は18歳人口がピークに達した平成4年(1992年)よりも、大学院重点化で大学院生が激増している現在の方が多いというのですから、文部省(現文科省)の政策と大学経営者の思惑が妙にマッチしたものだと思いました。また、身につまされるお話しも収録されていて、少しブルーになりました。わたしは指導教官に恵まれ、運も良かったのでしょう。

2008年2月 9日 (土)

最強の経済学者

 曇り。小雨。院試のため出勤しています。

 このところ、定期試験の監督や臨時の会議、また、歯医者さんに通い始めたので、忙しく過ごしています。時間が分断されていると、勉強がなかなかできません。定期試験の監督は来週で終わるので、それ以降は、少しマシになるかも。

 ということで時間が分断されているなか、エーベンシュタイン『最強の経済学者 ミルトン・フリードマン』(大野 一【訳】、日経BP社、2008年)を読みました。

 1976年のノーベル経済学賞受賞者ミルトン・フリードマンの伝記(非公式)です。フリードマンの伝記は、以前、妻のローズ・フリードマンによる『ミルトン・フリードマン:わが友、わが夫』(鶴岡厚生【訳】、東洋経済新報社、1981年)を読んでいて、その内容とほぼ違いはありませんでした。まぁ、ローズによるものは以前の勤務校の図書館から借り出したものだったので、フリードマンの伝記を手許に置いておくためには、この本の購入自体には意義があったと思われます。

 伝記以外の部分では、フリードマンが源泉徴収制度を導入した経緯について、また社会主義(生産手段の共有)と共産主義(全財産の共有)と両制度の違いを明確に記述していた点などに目がとまりました。

 ただ、フリードマンやハイエクをリバタリアンとして評価している点には若干、疑問があります。リバタリアニズムは、いわゆる現代正義論の一論陣だと思うのですが、その思想基盤には契約論的思考法があると思います(ロバート・ノージックのように)。フリードマンやハイエクの思考法には、そのようなものが見られないと思います。

 巻末に掲載されているインタビューのなかでのフリードマンの以下の発言に触れたとき、思わず膝を打ちました。

 「高齢化社会であっても、現役時代に蓄えをしておけば、いくら高齢者が多くても国は繁栄できる。アメリカや日欧では年金制度が危機に瀕しているが、その理由は一つしかない。ネズミ講はいずれ破綻するのだ」(324頁)。

 現行所得税率および社会保険料のもとでは、現役時代の蓄えが不可能ではありませんか。わが家では不可能です。

2008年2月 4日 (月)

「みんな」のバカ!

 晴れています。

 この週末は寒かったですね。東京都心でも積雪があったようです。

 そんななか、土曜日には前任校に最後のご奉仕に行きました。あさ6:16発の有明で・・・。まだ暗いっちゅうの。

 有明とひかりレール・スターの車中で、仲正昌樹『「みんな」のバカ!:無責任になる構造』(光文社新書、2004年)を読みました。

 わたしたちはよく「みんな」という言葉を用いて発言することがあります。たとえば「みんながそう言っています・・・」、「みんなもそう考えているはずです・・・」。ときには「社会が許さない・・・」、「世間の常識では・・・」と言ったりします。場合によっては「国民の視点にたって・・・」と言ったり。この文の主語である「みんな」「社会」「世間」「国民」って、存在しているのでしょうか?その言い方も、自分の意見を代弁させる目的で「みんな」「社会」・・・という主語を使い、自分の意見があたかもみんなの意見であると擬制することで、その意見に対する批判の矛先をかわすという効果を狙っていないでしょうか。つまり、責任の所在を不明確にしていないでしょうか。テレビのコメンテーターが、政治家が、世間や国民を主語にした発言をしたときには「それはあなたの意見でしょう!」とつっこみを入れたくなります。なぜ「わたしは・・・こう考えます」と言わない(言えない)人が、コメントしているのでしょうか?みんなが考えることなら希少な時間を使って話さなくても、みんなはわかっていることでしょう。

 そういえば、中学校のときの先生が持ち物に名前を書きましょうという時に「責任の所在を明確に」と言っていました。その当時は落とした、忘れたときに、所有者に戻ってくる、というぐらいにしかこの言葉を捉えていませんでした。が、いま思えば、あの言葉には重要な教育的意味あいがあったのでしょう。自分の所有しているものには、物でも意見でも、名前を表示しましょう、という教えだったのでしょう。

 上記のことを仲正さんの文章を読みながら、電車のなかで、つらつらと考えました。

2008年2月 1日 (金)

生は彼方に

 晴。穏やかな天気。

 今日から2月。「2月は逃げる、3月は去る」といわれるように、忙しい時期になりました。

 ここ数日、ミラン・クンデラ『生は彼方に』(西永良成【訳】、早川書房、2001年)を読み進めてきました。

 なぜこの本を読んでいるのかというと……、それがわからないのです。自宅の本棚にこの本があり、ずっと読みたい読みたいと思っていたのですが……、その理由もなぜこの本を読もうと思ったのかが知りたかったからでした。

 読み始めてみて、やっぱりわからないのです。読み進めていくうちにわかるかと思い、はやく他の本を読みたい、読みたいと思いながら201頁まで読んだのですが、とうとうわからずじまいで、これ以上読むのをやめました。

 チェコの歴史を題材にした政治小説でしょうが、自分がなぜこの本を読もうと思い、購入したのか。さっぱりわかりません。

 みなさんはこういう経験、ありませんか?

2008年1月23日 (水)

インターネット時代の著作権

 曇り。全国的に寒い一日になりそう。

 さる月曜日(21日)に、学内の研究会で報告をしました。テーマは「著作権をみる憲法学の視点について」です。

 最近は著作権に関する研究をしているという噂を聞きつけてか「これこれの場合は著作権法違反になるのでしょうか?」という質問を受けることがあります。ところが、著作権法の実務上の考え方は、よくわかりません。もし質問されても、六法と格闘することになります。

 というわけで、少しでも実務上の問題に明るくなっておこうと思って、まず読んだのが半田正夫『インターネット時代の著作権:実例がわかる Q & A 付』(丸善ライブラリー、2001年)です。

 半田先生の書かれたものを読むと、たとえば著作者人格権と著作財産権との関係をドイツのE・ウルマーの理論に依拠して「一元論」的に理解するなど、著作権法学界では少数説の立場にあるように思います。ただ、わたしは、理論的には半田説が正しいように思うので、よく引照させてもらっています。

 この本は、新書で一般向きということもあるので、もちろんオーソドックスな線で書かれています。

2008年1月14日 (月)

食育のススメ

 日は照っていますが、まぁ、曇りというところでしょうか。

 本日は、成人の日ですね。今年成人式を迎えるのは1987年生まれの人、135万人のようです。随分と減っているのでしょうね。大学業界に身を置くものとして、少子化問題は、他人事ではありません。

 ことろで、今日は、黒岩比佐子『食育のススメ』(文春新書、2007年)を読みました。

 この本の帯にあった「食は人の基本、夫婦の基本。」という言葉に触発されて、つい購入し読みました。ただ、大変面白い本でした。

 近年でこそ「食育」という言葉がもてはやされ、平成17年6月には「食育基本法」が制定され、本年1月に発売された『広辞苑』の第6版では初めて「食育」という言葉が収録されたようですが、それまでは、確かに「食育」という教育の領域(?)の重要性は、あまり説かれていなかったと思います。

 ところが明治30年代には「食育」に関する大ベストセラーが新聞小説という形体で、多くの庶民に読まれていたそうです。それは村井弦斎の『食道楽』という本ですが『食育のススメ』は当時の食育に関する啓蒙本であるこの『食道楽』を紹介するものです。

 この『食道楽』は「美味しい料理を食べる幸せ、未知の味を知ったときの喜び」が書かれているばかりでなく、「文中に具体的なレシピが紹介され」「料理の蘊蓄、食物が身体に与える影響、料理の素材や道具の知識、生活全般の知恵など、読みながら自然に多くのことを学べ」(「あとがき」)るようなので、時間を見つけて読みたいと思います。

 『食道楽』のエッセンスは、黒岩さんの『食育のススメ』でもよくわかります。この本を読むと村井弦斎の『食道楽』を読みたくなります。紹介本としては、非常によく書けている本ではないでしょうか(僭越ながら)。

 わたしも娘の教育方針として、知育より、徳育より、体育より、食育を掲げたいと思いました。

2008年1月11日 (金)

楽しい読書生活

 雨。

 今日は、渡部昇一『楽しい読書生活』(ビジネス社、2007年)を読みました。

 たまに「わたしはこういう本を読んできた」的な本を読んで、自分の読書を省みることがあります。この本の著者は100坪の書斎があるそうで、大した蔵書家ということが言えるでしょう。その書棚を見てみたいものです。

 どのような本を読んでいるのかということは、その人自身を映す鏡なので、非常に興味があるところです。わたしは自分の読書に自身がないので、人様の研究室や書棚を見ては、よく勉強されているなぁ~、と感心することばかりです。そして自分のものは、なんて節操なく本が買われ、読まれているのか、と情けなくなります。

 ところで、わたしもそうですが、買った本のすべてが読めるわけではありません。大変な蔵書家なら10分の1ぐらいしか、読めていないのではないでしょうか。「積ん読」の効用は夙に語られているところですが、わたしは「わたしはこういう本を読んできた」的な本を書いておられる著者方の、「わたしはこういう本を買ったが読めなかった」的な本を読んでみたいと、以前から思っています。有名な読書家、蔵書家の、購入の時にはどのような流れで買って、どのくらいの期間、本棚に置かれていて、結局、読まなかった(読めなかった)本というのは、非常に関心があります。ある時点ではつぎはこれを読もうと思いながら、現在の読書が終わったときには、他のものを読みたくなってしまった……なんて話を聞きたいと思っているのです。この手の本は、市場では取り上げられないのでしょうか。

2008年1月 7日 (月)

学問の力

 早朝の雨も午前中にはあがり、午後から正月とは思えない暖かさ。

 この週末に本年最初の読書として、佐伯啓思『学問の力』(NTT出版、2006年)を読みました。

 はじめの方は、著者の学問論が展開されていて、とくにポスト・モダンの思考法(議論方法)を批判的に検討していくところなど、興味深い内容でした。(たとえば、「湾岸戦争はなかった」というフランスの現代思想家ボートリヤールの修辞法を取り上げて、その衆人の注目の集め方とそこで気の利いたレトリックを展開することで知識人がまるで「知的芸人」に化した様相を論述した部分など、皮肉が効いていたと思います)。

 ただ後半部分は、著者の保守主義論、進歩主義批判が展開されており、それ自体はためになる文章でしたが、本の表題とは乖離した内容だと思いました。院生を前にした「語りおろし」という手法で成された本のようで、調子が出てきて、つい、得意分野の議論を展開したのでしょうか……。

 佐伯啓思の保守主義論に触れるなら、著者自身が「あとがき」で書いているように「語りおろし」ではなく、彼の「書きおろし」のものを読む方が、正確な議論が展開されていてよいと思います。

2007年12月27日 (木)

裏声で歌え君が代

 快晴です。年末に雪がちらつく予報があるとは思えません。

 先週から読み続けてきた丸谷才一『裏声で歌え君が代』(新潮文庫、1990年)をようやく読み終えました。購入以来、読もう読もうとは思っていたのですが、文庫とはいえ600頁に及ぶ分量に、まとまった時間が必要だったので、年末というのはよい機会でした。

 この本の内容をひと言で表すとするなら、それは池澤夏樹による「解説」にあるように、「国家論」というしかないでしょう。国家というのはどのような存在なのか(確かに存在している)、わたしたちは国家とどのように向き合っていけばよいのか、ということについて、もちろん結論を得るまでには至りませんが、考えるきっかけを与える良書だと思います。

 日本という比較的国家というものを意識せずに生きていける環境で、なお薬害訴訟とか集団自決に関する教科書の記述のこととかに思いをはせるとき、朧気に浮かび上がるその姿を看取するよい材料でした。

 また丸谷が主人公である画商・梨田雄吉の口を借りて述べる君が代の歌詞の解説や、日本軍の非合理性(深夜こっそり敵を殺傷するさいにも日本軍の美意識として喊声をあげて突撃すると考えていること)など、さらに解説者が「謎の黒幕」と評している台湾独立運動反対派であろう朱伊正が、西欧近代国家の「民衆が、民衆を、民衆のために統治する民主主義」をいうのは結局のことろ治者と被治者の同一性を説いており、話に無理があるとしている件、「古代的な、少数者による政治のほうが、うまくいくような気がします」というところなど、考えさせられる記述が盛りだくさんでした。

 ただ、小説という作法ゆえ仕方ない(というかそれが真髄)かもしれませんが、ところどころに織り交ぜられているエロティックな記述は、いまのわたしには不要でした。

2007年12月17日 (月)

監視社会

 朝方は清々しい寒さでしたが、昼からは曇り。さむっ。

 週末に読み残していたデイヴィッド・ライアン【著】、河村一郎【訳】『監視社会』(青土社、2002年)を読み終えました。この本は、先週読んだ大屋雄裕『自由とは何か』(ちくま新書、2007年)でも言及されていたものです。

監視社会

著者:デイヴィッド ライアン

監視社会

 ライアンは、個人データの収集・保存・処理・流通の過程を全般的に捉えて、個人情報の「監視」という概念を定式化しています。このように理解した場合、わたしたちは、さまざまな場面で、「監視」の恩恵を受けているといえるでしょう。もちろん治安維持、セキュリティを確保することもそうですが、商取引における信頼、利便性確保の場面にも、「監視」の有用性が見て取れます。さまざまな生活場面で個人情報を収集されていることも、ピンポイントなダイレクトメールが届くことにも、ある種の気味悪さを感じますが、それでもなんらかの権益を侵害されたというような実害を感じることなく、日常生活では、上記の有用性が際立っているように思います。すでにわたしたちは、監視によりもたらされた「社会的オーケストレーション」のなかでしか生きられないのでしょうか。

 今日、個人情報の保持機関は、国家機関に限られていません。多くの民間機関もわたしたちの個人情報を多種多様な媒介を通して収集しています。「社会的オーケストレーション」のなかに組み込まれてしまっているわたしは、わたしの情報をもつ人がわたしの利害を尊重してその情報を利用してくれることを、好意的に期待するしかなさそうです。わたしたちは、日常生活における有用性と引き換えに、不気味な「ビック・ブラザー」(オーエル『1984年』)を作り出してしまったのでしょうか。

 なんとなく薄気味の悪い読後感です。

2007年12月12日 (水)

自由とは何か

 昼から雨。

 先週末の学会出張の道すがら、大屋雄裕『自由とは何か:監視社会と『個人』の消滅」(ちくま新書、2007年)を読みました。大屋さんとはお会いしたことはないのですが、岩波講座『憲法1:立憲主義の哲学的問題地平』(2007年)の共著者という関係にあります。

 大屋さんの著書は「監視社会」という言葉に体現されているように、現代社会においてわれわれの行為はさまざまな場面で枠づけられており、ある意味で自律性さえ失っているといえる。そういうわれわれは、はなして自由な個人なのだろうか、という点に焦点を当てた秀作だと思いました。同年代というよりわたしより若い著者がここまでのものを物すと、なんだか焦燥感のようなものまで感じます。

 法哲学というと、ときに現実社会とは離れた観念の世界を彷徨する学問の様相を呈します。しかし現実に生起している問題を哲学的基盤で分析する大屋さんの本は、新書レベルの内容を超えた奥深い思考へとわたしを導くものでした。

 これがわたしの簡単な評価です。(「楽しい」とはちょっといえそうもなかったので……)。

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書 680)

著者:大屋 雄裕

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書 680)

2007年11月30日 (金)

テレビはインターネットが嫌い

 よく晴れた日。楓と銀杏の紅葉が、五高記念館をまぶしく彩っています。

 そんななか、吉野次郎『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』(日経BP社、2006)を読みました。これは前任者が校費で購入していた図書です。

 この本は、地上デジタル放送の導入や通信と放送の融合が始まったなかで、まさになぜテレビはインターネットが嫌いなのかを述べた興味深い本でした。まぁ、ひとことで言えば、テレビ局(とくに在京キィー局)が既得権を固持したいから、というのがインターネットを嫌う理由なのでしょう。時間を掛けずに読める本なので、是非、一読してください。

 また、あわせて池田信夫『電波利権』(新潮新書、2006)を読めば、わたしたちの身近なところでおいしい商売があるのだなぁ~、と感じます。こちらもお勧めの一冊です。

 以下は『テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか』についてのわたしの簡単な評価です。

テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか

著者:吉野 次郎

テレビはインターネットがなぜ嫌いなのか

2007年11月25日 (日)

哲学者の私生活

 昨日、前任校への出講の道中では、以下の本を読みました。

 金森誠也【著】『哲学者の私生活』(大陸書房、1978年)。

 本書は名だたる哲学者(本書では20名が取り上げられている)の人となりがよくわかるエピソードを中心に、哲学者という人種の日常生活を垣間見ようとしたものです。書名の「私生活」という語感から想起されるものに性生活・異性関係(取り上げられている哲学者がすべて男性であったので女性関係)があると思うのですが、各哲学者の項目で、多くの場合にこの女性関係、女性観が取り上げられている点が、本書の特徴と言えると思います。

 その他、各哲学者の飲食、政治への関わり方など、その哲学者の人となりからその思索の傾向性などが窺えて、楽しい読書時間でした。